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第21回 北京にもあった時代が止まった村(北京)

COLUMN

みなさんは「北京」と聞いて、どんな風景を思い浮かべますか。広大な故宮と天安門広場、近代的な高層ビル群、昔ながらの風情が残る「胡同」、壮大無比な万里の長城――。あるいは北京五輪の興奮を思い出す人もいるでしょう。しかし、北京には、まだまだ知られていない「顔」もあります。北京管内の14区2県のうち、他省と境界を接する懐柔区、門頭溝区、密雲県、延慶県などまで足をのばせば、「ここも北京!?」と目を疑うような大自然が広がっているのです。

今回はその門頭溝区にある「川底下村」を紹介してみたいと思います。

 

北京市内から西へ約90キロ。公共交通だけを使って行こうとすると、アクセスは非常に悪く、地下鉄1号線の終点「萍果園」から発車するバスは、1日わずか2本しかありません。市街地を抜けたローカルバスは、人家もまばらな山間の道を進んでいきます。なにせ門頭溝区は全体の98.5%が山地。このあたりに住む農民に「北京市民です」と言われたなら、失礼ですが、違和感を禁じ得ません。

バスは2時間半ほどで村の入口に到着します。「川底下」という地名ながら、大きな川はなく、周囲は見渡す限り山ばかり。かつては「爨底下村」と名乗っていたのですが、古い文化や伝統を徹底的に破壊した文化大革命の際に改名されたのです。「爨」とはなんとも難しい漢字ですが、「かまど」「炊事をする」という意味があります。この「爨」(cuan)と発音が似ていることから、「川」(chuan)の字が当てられたものと思われます。

 

 

山に囲まれた村には、明・清代に建てられた、ほぼ完璧な形の四合院住宅が70以上も残っており、民家の壁には毛沢東時代のスローガンが踊っています。騒々しい団体ツアー客と遭遇しなければ、タイムマシンで時代を逆戻りしたかのような感覚を体験できます。「川底下村」の歴史は古く、今から500年以上も前の明代初期(永楽年間)に、北方異民族の侵攻を阻止するために築かれた軍事拠点が起源です。村の建設に従事したのは、山西省から移住させられた人たち。彼らは全員が「韓」姓で統一され、今もその伝統は受け継がれています。

ちなみに、なぜ「韓」だったかというと、前述のとおり「爨」には火に関係する「炊事」「かまど」といった意味があるため、陰陽五行のバランスを取り、「寒」(han)と同じ発音の「韓」(han)になったとのこと。昼食をとろうと一軒の食堂(といっても民家の軒先)に入り、農婦に「お名前は」と質問してみたところ、やはり「韓」さんでした。村の料理は山菜と地鶏が中心の典型的な田舎料理。食卓の横では、子どもがカマキリと遊んでいたりして、穏やかこのうえない時間でした。

 

 

この村が開発の波に巻き込まれず済んだのは、北京中心部から続く国道のルートから外れたため。村民たちは不便な生活を余儀なくされたかわりに、「古鎮めぐり」ブームに沸く昨今、莫大な観光収入の恩恵に浴することができたのです。壁に残る毛沢東時代のスローガンなどは、レトロ感を演出する狙いで、あえて消さなかったのかも知れませんが、それならそれで構わないでしょう。思惑はどうであれ、この貴重な景観が守られるのであれば。

 

村を一望できる高台で会った北京の大学生は「こういう場所へ来ると、都会生活のストレスから解放されるよ」とつぶやき、大きく深呼吸をしていました。「北京の異境」は、ストレスフルな「北京人」にとって、束の間の癒しを与えてくれる場所でもあるようです。

 

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