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創考喜楽

第11回 僕を泣かせた中国人

COLUMN

中国ビジネスを担当している友人と会うと、しばしば「中国人にはよく泣かされているよ」といった愚痴を聞かされるのですが、これは彼らの超マイペースで自己主張ばかりが強いビジネススタイルを指しているのでしょう。前回のコラムでは、約束を守らない中国人、方針を一方的にコロコロ変える中国人に泣かされたエピソードを紹介しましたが、仕事(金銭)さえ絡まなければ、実は情に厚い人が多いのも中国人。今回は同じ「泣かされた」でも、「感涙」にまつわる思い出を振り返ってみたいと思います。

 

15年前、湖南省長沙市の日本語学校で講師を務めていたことは以前にも触れました。教え子や友人知人はみな心優しく親切だったので、悲しい、辛い、悔しいといった感情で涙を流したことは一度もありません。

そんな幸せな日々が瞬く間に過ぎ、日本へ帰国する日、十数人の教え子が送別会を開いてくれました。お世辞にも立派なレストランとは言えなかったものの、ふだんは学生食堂や自炊で生活費を切り詰めている彼らにすれば、大変な出費だったに違いありません。僕に会計をさせてくれないことは分かっていましたから、申し訳なさも感じつつ、(未成年者相手にいけないのですが)ビールの杯を重ね、笑いに包まれた楽しい時間を過ごしました。
案の定、班長が代表して勘定をすませ、僕が差し出したお金は受け取ってくれません。お礼を言い、後ろ髪を引かれる思いで駅へ向かおうとしたところ、なんと全員が「ぜひホームで見送りたい」と言うではありませんか。もうこの時点でウルっとなっていたのですが、どうにか我慢して広州行きの列車に乗り込みました。すると、どこに隠し持っていたのか、次々とプレゼントが。缶ビール、おつまみ、民芸品、小説、寄せ書き、写真等々、この場にいない教え子から預かったというものも含まれていました。
発車のベルが鳴り、泣きながら手を振る教え子の顔を見た瞬間、ついに堰を切ったように涙があふれ、あとはもう涙、涙、涙。夜行列車という別れのシチュエーションが、感傷的な気持ちをいっそう切なくしたのでした。

 

長沙に赴任して最初に暮らした場所は、学校近くの老朽宿舎。諸般の事情から個室が確保できず、生活指導を任されていた莫先生と奥さんの部屋に同居することになったのです。
莫先生は60代後半くらいで、日本語はおろか、北京語も話せなかったため、コミュニケーションには苦労しました。教え子がいると、難解な湖南方言を北京語に「通訳」してくれるのですが。
きれいな白髪と当時でも珍しかった人民服がトレードマーク。実直な人柄で、寮生の門限には厳しかったのですが、孫のような教え子からは慕われていました。
莫夫妻との共同生活は、正直、息苦しさばかりを感じていた気がします。言葉が通じないもどかしさに加え、テレビも冷蔵庫もエアコンもシャワーない住環境、早寝早起(9時には消灯)の生活習慣――次第に家を空ける機会が多くなり、深夜にそっと鍵をあけて帰宅する日が増えていきました。近所の食堂へ行けば、安くておいしい料理が食べられたし、教え子と過ごすほうが楽しかったのです。3カ月後、ようやく部屋が見つかり、同居生活が終わると、自然と莫先生とは疎遠になりました。

 

その半年後、教え子が「莫先生が退職され、郷里に帰るそうです」と教えてくれました。お別れの挨拶に行くと、久しぶりに会った莫先生は、僕の手を固く握り、「私の肉親は戦争で犠牲になったので、日本にはいい感情を抱いていなかったが、中国を愛してくれた君は大切な友人だ」と言ってくれたのです。その言葉を聞き、思わず涙が滲んできました。

(おそらく)校長の命令で日本人と同居することとなった莫夫妻こそ息苦しかったはずなのに、嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔で接してくれました。激辛料理が好きな湖南人なのに、「老人に刺激が強い唐辛子はよくない」などと言い、淡白な料理ばかり食べていました。教え子から「内海先生は辛いものが大の苦手」と聞き、自分たちが合わせてくれていたのでしょう。

抗日戦争、文化大革命――苛烈な時代を生き抜いた莫先生の貴重な体験談を、なぜ聞いておかなかったのか。それ以前に、慈愛に満ちた莫夫妻との距離を縮める努力を、なぜ怠ってしまったのか。
今となっては、無性に「あの部屋」が懐かしくて仕方がありません。

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