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第17回 毛沢東が今も生きる街で過ごした日々~湖南省長沙~

COLUMN

以前のコラムでも触れたことがありますが、1997年から約2年間、湖南省の長沙という街で、留学生活の傍ら、知人が経営する日本語学校の講師を務めていました。日本人にとって長沙は、めぼしい観光名所もない地味な地方都市とのイメージしかないと思いますが、中国人から「どこに住んでいましたか」と聞かれ、「長沙です」と答えると、「ほう。あの長沙に。どうして北京や上海に行かなかったのですか。周りに日本人などいなかったでしょう」と驚かれることが多々ありました。なぜなら、長沙は毛沢東の出身地であり、知らない人はいない全国屈指の「革命聖地」だからです。 当時、数ある特急列車のなかで、栄光の列車番号「1」を冠していたのは、北京発長沙行きでした。それだけ長沙は「特別」な場所だったのです。

ちなみに、湖南省は偉人を数多く輩出している土地でもあり、朱鎔基・前首相、劉少奇・元国家主席などがいます。

留学の地に長沙を選んだとはいえ、もちろん、僕は毛沢東信者ではありません。むしろ、文化大革命によって多くの災禍をもたらした冷徹な独裁者としての顔が浮かぶため、北朝鮮の金日成と同列くらいの位置付けだったのですが、実際に長沙で暮らしてみると、毛沢東に対する見方が少し変わったことも事実です。

 

長沙の街にも「毛沢東ゆかりの~」といった場所があふれていますが、生家がある郊外の韶山を訪れれば、村全体が毛沢東一色。各地から「毛沢東詣で」に来る人が引きも切らず、最近は「紅色旅游」(革命聖地めぐり)ブームにも乗り、ますます賑わいをみせているようです。

 

なぜ悲惨な文革を経験しながら、文革世代の人たちまでが毛沢東を敬慕(あるいは懐旧)するのか、当初は不思議でなりませんでした。

が、長沙や韶山で毛沢東の足跡を辿るうち、ある事実に気が付きました。無辜(むこ)の民衆を苦しめた独裁者の毛沢東は、北京で権力の中枢に居座ってからであり、長沙時代の毛沢東は、社会主義国家建設の理想に燃える、農家出身の熱血青年だったのだと。

ゆかりの地に飾られている写真は、われわれが知るふくよかな毛沢東とは別人のようで、力強い眼光をたたえた痩身の好青年です。少なくともこの時代は、貧困に喘ぐ農民を救い、侵略者の日本軍を打倒し、誰もが平等に暮らせる社会主義国家を実現したいと願っていたはず。高邁な理想を実現するためには「努力」に加えて「権力」も必要ですが、強大な「権力」を手中にした途端、正義を訴えていた人物が独裁者や暴君に豹変してしまうケースが少なくありません。評価されるべき業績を残しながら晩節を汚した、という点では、毛沢東時代に日中国交正常化の道を開き、いまなお中国人の間で絶大な人気がある田中角栄も同様でしょう。

 

留学先の大学の友人に「毛沢東を尊敬しているの」と聞くと、「文革は肯定できないけれど、それ以外は立派な革命家だったと思う」との答えが最も多かったと記憶しています。15年後の今、当時とはまったく異なる価値観を有する「90後」(ジウリンホウ)世代の大学生に同じ質問をしたなら、どんな答えが返ってくるでしょうか。

 

毛沢東の話題といえば、「紅色旅游」とともに「毛沢東レストラン」が大ブームになっています。長沙や韶山にある「毛家飯店」は、毛沢東が好きだった激辛の湖南料理を提供する店ですが、こちらはスタッフが紅衛兵の衣装を着用し、店内に毛沢東語録やスローガンを飾るなどしてレトロ感を演出した店のこと。ここでの毛沢東は、商売のために利用された、単なる「キャラクター」に過ぎません。

 

貧富差が拡大する閉塞感漂う社会のなか、就職難、住宅難に苦吟する庶民の多くが、「昔に比べ、物質的に豊かにはなったけれど、はたしてこの生活が幸せなのか」との疑念を少なからず抱いています。
そうした時代にあって、「毛沢東レストラン」は、貧しくとも「希望」という言葉が輝きを保っていた時代にタイムスリップさせてくれる安らぎの空間なのかも知れません。

 

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