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創考喜楽

第1回 僕が中国にハマったわけ

COLUMN

16年前、はじめて訪れた中国の都市は北京でした。

当時、あまりの激務のため体調をくずし、勤めていた出版社を辞した僕は、幼少時代から漠然と中国(漢字文化)に憧れを抱いていたこともあり、飯田橋にある中国語学校に入学しました。その学校で夏休みに「短期語学留学」という活動があり、1カ月あまり中国人民大学で生活する機会に恵まれたのです。

北京を訪れる以前に、台湾、香港、韓国は歩いていたものの、北京の街が放熱するエネルギーは、過去に体験したことがない強烈なインパクトで、たちまちこの不思議な国に魅了されてしまいました。エネルギーの発生源は、言うまでもなく個性豊かな中国人です。人民大学の先生は、さすがにインテリ風の常識人でしたが、一歩街へ出れば、日本では考えられない光景ばかり。退屈な授業は上の空、放課後は毎日、刺激と興奮を求め、地図を片手に足を棒にして北京じゅうを歩き回りました。

 

あの頃の北京は、まだ随所に古都の趣を残しており、裏通りの胡同(フートン)などに入れば、熱気渦巻く表通りとは別世界、たおやかな時間が流れていました。日がな道端で談笑し、お茶を飲み、カードや囲碁に興じる穏やかな表情の老人たちを見て、「あの賑やかな中国人も、年をとると、さすがに静かになるのだな」と微笑ましく思ったものです。

 

行きつけの大衆食堂では、しばしば隣席のおじさんが「おまえは日本人の留学生か」と興味を示し、酒や料理をご馳走してくれました。日本人など滅多に来ない大衆店だったので、われわれの存在が物珍しかったようです。「食べ残しの骨は皿に残さず床に捨てろ」「冷えすぎたビールは身体に悪い。あまりガブガブ飲むな」「きょうは俺のおごりだ。割り勘? そんなケチな習慣は中国にはないぞ」――市井の人たちから学んだ中国式の流儀は数知れません。また、苦労しながらも彼らと中国語で交流した時間が、語学の上達においても大いにプラスになったと思います。教科書の例文はすぐに忘れてしまいがちですが、相手に通じた自分の言葉は、後々まで絶対に忘れないもの。ですから、中国語を学習されている方は、とにかく臆せず、積極的に話しかけてみてください。どんなに下手くそでも、自分の母国語を話そうとする相手には、とことん親切にしてくれるのが中国人の特徴でもあるので。

 

北京滞在中は、週末の休みを利用して、大同市(山西省)の雲崗石窟や秦皇島市(河北省)の長城東端などへ出かけました。もともと、筋金入りの鉄道ファン。エキサイティングな寝台車の旅は、忘れられない思い出となりました。

 

狭い車内に大勢の乗客が詰め込まれる列車の旅こそ、人間臭さが凝縮された濃密な空間であり、最高の中国人ウォッチングの場と言えるでしょう。僕は3段ベッドの下段だったのですが、窮屈な中段と上段の客が、当たり前のように腰をおろすので、眠るに眠れません(これが中国式の旅)。仕方なく、窓枠に肘をつき、ぼんやり夜の車窓を眺めていると、向かいのベッドの家族連れが、瑞々しいトマトを勧めてくれました。「謝謝」とお礼を言ったのがきっかけで話が弾むうち、周囲の客たちが「日本人と話すのははじめてだ」とすっかり盛り上がり、たちまち質問攻めに。「留学費用はいくら払ったのか」「東京での家賃はいくらだった」「北京までの航空券はいくらだ」「働いていたときの給料は」など、日本人なら憚られるストレートなお金に関する話題が多いのが中国人らしかったのですが、なかには「まだ独身か。いい女性を紹介してやる」と真顔で心配してくれる人まで現れ、なかなか寝かせてもらえませんでした(笑)。ただ、最近は中国人の他人に対する距離感も変わってきたのか、こうした場面に遭遇しないのが残念なのですが。

 

1カ月の短期留学は瞬く間に過ぎ、帰国後、僕のなかで中国に対する憧憬の念が、ますます膨らんでいきました。その思いが昂じた結果、日本で再就職する考えを捨て、2年後に湖南省長沙市へ向かうこととなったのです。

 

約2年間を過ごした長沙では、湖南師範大学に通い、そして知人が経営する日本語学校で講師を務め、多くの仲間、教え子、地元の人々と喜怒哀楽を分かち合いました。そこで決心したのが「絶対に中国と関わる仕事をする」ということ。今、その思いが成就しているのですから、これ以上の幸せはありません。長沙時代のエピソードは、また改めて触れたいと思います。

 

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