米国でエンプロイー・エンゲージメントというコンセプトが注目されるようになった背景には、優秀な人材の確保とモチベーションの向上を目的として、これまで一般的に行われてきたさまざまな施策が効果を失いつつあるという事実がある。
シリコンバレーのハイテク企業などはその象徴的な事例だろう。急成長を続けるシリコンバレー企業HR部門の課題は、高度な技能を持ったハイレベルな労働力を、必要とされる人数だけ、どのように確保したらいいのか、ということだ。社員の能力や資質がそのまま企業業績を大きく左右しかねない先進的な産業分野においては、人材の確保は何よりも重要だ。さらに苦労して確保した社員のモチベーションをどのように上げるか、さらにその状態を維持しつつどのように離職率を低くとどめるか、ということも大きな課題となってくる。しかもこれらの問題はハイテク企業だけに限定される問題ではなく、人的なサービスに依存する流通業などのサービス業全般にとってもきわめて重要になっている。
これまで米国で行われてきたのは、株というわかりやすくダイレクトな経済面でのメリットを社員に与えることだ。米国に限らず日本でも、様々な分野の企業において同様な取り組みが行われるようになっている。もっとも日本の場合は福利厚生を目的とするものになっていることも多いという点で、米国とは若干状況が異なっている。
米国でここ数年、単に経済的なメリットを与えるだけでは人が集まらない、モチベーション高く働いてくれない、定着してくれないといった状況が目立ち始めた。特にひとりひとりの社員による創意工夫が求められるような職種や分野において、その傾向は顕著になっている。どうやら働くということに対する人々の意識が変わり始めているようだ。
こうした状況を打破する一つのヒントとなるかもしれない書籍が米国で発表された。それが「モチベーション3.0 持続するやる気をいかに引き出すか」だ。著者はアル・ゴア元副大統領のスピーチライターとして有名になったダニエル・ピンク氏。同書は日本でも2010年に講談社から発行されており、訳者は大前研一氏。この本の原題は「Drive」で「The Surprising Truth about What Motivates Us.」という副題がついている。訳せば「我々を動機付けるもの、その驚くべき真実」ということになるが、まさにこの副題こそがそのままこの本のテーマである。以下、この本の内容をごく簡単に要約してみる。
同書では、人を動かすモチベーションをコンピュータの基本ソフト(OS)に例えて語っている。
たとえばモチベーション1.0は生存を目的とするもっとも初期的な労働動機の段階を意味している。この段階では、人はもっぱら生きるため、安全な暮らしを確保するために働いている。それゆえその目的が達成されることがもっとも満足できる状態であり、その労働を継続することが安全と生存の維持に直結している。
ところがいったん安全と生存が社会一般に保証されるような状況が生まれると、それまでとは異なったモチベーションが必要になってくる。これがモチベーション2.0の段階である。たとえば大量生産が行われる工場などにおいては、毎日遅刻せず出勤して、勤務時間中も怠けることなく働くことが求められる。そして与えられた時間でより効率的な労働を提供できる、あるいはより高い技能を身につけて生産能力を向上させるような労働者には他者よりも高い賃金が支払われる一方、作業ペースが遅かったり、劣った能力や技能しか提供できない労働者は賃金が引き下げられたり、時には解雇されるということも起こってくる。
つまり、人はより多くの報酬を得るために働くもの、という考え方だ。それを前提として報償を用意し、それができない人に対しては罰を与えるというアメとムチのマネージメントである。この信賞必罰的なマネージメントの基本にある動機の捉え方がモチベーション2.0である。またここまであからさまではないにしても、モチベーション2.0的なマネージメントは業種や企業サイズに関係なく、多くの企業において今でも基本的な考え方になっていると言えるだろう。
ところが現在、人を動かす原動力としてのモチベーションは3.0にまで進化している、というのがこの本の主旨だ。同書の扉にある言葉を抜粋すると「モチベーション3.0 自分の内面から湧き出る【やる気!(Drive)】に基づくOS。活気ある社会や組織をつくるための新しい【やる気!(Drive)】の基本形」ということだ。ちなみにDriveを辞書で調べると、操縦、運転、(人をある状態・行為に)追いやる、という意味がある。
ちなみに同書の中でモチベーション3.0の構成要素として考えられているのは、「Autonomy / 自律性」「Masterly / 熟達」「Purpose / 目的」の3つ。この3つの要素がうまく組み合わさったところに新しいモチベーションが生まれて、人はクリエイティブに働けるようになる、としている。
長い間社会を牛耳ってきた古いOSはもはや機能不全の状態にあり、現在のビジネスとは多くの部分で相容れないものになっている。それにも関わらず大部分の組織や企業が、古いOSを少しだけ改良することで問題を解決できると考え、失敗を繰り返している。このままでは良い結果は期待できない。基本となるOSをフルバージョンアップすべき時を迎えているのだ。
ところで、「CS」(カスタマー・サティスファクション/顧客満足)という概念から派生した「ES」(エンプロイー・サティスファクション/従業員満足)というマネージメント指標が注目された時期がある。それは、会社に対する従業員の満足度が高い企業ほど企業と従業員の一体感が醸成され、結果として市場におけるより強い競争力を持つことになるので、まずは従業員の満足度を上げるべきとする考え方だ。
エンプロイー・エンゲージメントはこの「ES」という概念にある意味で近い。ただしESが従業員と企業という閉じられた関係性を重視しているのに対して、エンプロイー・エンゲージメントは従業員と企業の関係にとどまらず、企業と社会との関係までを包含する概念であるという点で異なっている。
コンサルティング会社のプライスウォーターハウス・クーパース社(PricewaterhouseCoopers)ではエンプロイー・エンゲージメントを「自ら進んで努力することでよりよいビジネスの結果を生み出そうとする、従業員自身の中に存在する願望の大きさ」と捉えている。つまりモチベーション3.0のベースになるのは、自分の内面から湧き出てくる仕事に対するやる気(=Drive)であり、そこに着目することで人は動いてくれる、という考え方だ。
実際、エンプロイー・エンゲージメントのレベルの高い企業は好業績を上げている。人事とリスクマネージメントの専門企業タワーズワトソン社が行ったグローバル企業50社を対象とする調査によれば、エンゲージメントレベルの高い企業は前年比19%の営業利益の増加を達成している。それに対して、エンゲージメントレベルの低い企業は、32%の営業利益の低下という結果を示している。
このように米国ではエンプロイー・エンゲージメントのレベルが企業の業績と密接に関係することが認識されるようになっている。企業にとってエンゲージメントレベルを上げることは業績を上げるための重要な課題と考えられているのだ。