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創考喜楽

2020.06.26
KNOW-HOW

第12回: 幸田露伴が教える正しい“努力術”


これまで11回にわたり人間学について学んできましたが、今回が最終回。第12回では、「努力術」に取り扱います。「努力」というテーマに関しては、文豪、幸田露伴の『努力論』が、興味深い論点を多く含み、大変参考になります。

 

 

 

“運”をあてにせず自らすすんで努力する

 

 

露伴によれば、“努力”はもともと人間に備わった本性だとされています。また、露伴は、“努力”を「直接の努力」と「間接の努力」との二つに分けています。「直接の努力」とは、実際に何かに向かって努力していることをいい、「間接の努力」とは“準備の努力”であり、「直接の努力」の“基礎となり源泉となるもの”をさします。

 

 

 

さらに、露伴はこう書いています。

 

 

「瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が娯って居る」

 

 

瓜のつるにナスがなるのを望むのは努力の方向の娯りである、つまり、努力の方向性も大切だということです。
この世の中には、努力しても報われないと思いたくなるケースが現実にあります。けれども露伴は、それは“努力の方向”が娯っているか、それ以上に「間接の努力」を欠いているためだと述べています。

 

 

 

また、努力と運、不運、幸、不幸の関係についての以下の指摘も、示唆に富んでいます。

 

 

「成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違ない」

 

 

人生に勝ち、成功や幸福をつかむ人ほど、それを運命の力ではなく自分の力によると考え、そうでない人ほど、自分の失敗や不幸を運命や他人のせいにする傾向があると、露伴は述べるのです。

 

 

 

さらに露伴は、次のように言います。

 

 

「大丈夫命を造るべし、命を言うべからず」

 

 

“大丈夫”とは、英雄、豪傑のようなリーダーのこと。“命”とは“運命”をさします。つまり、真にすぐれたリーダーとは、運のよし悪しに左右されたりせず、自ら運命をつくり出すぐらいの気概をもつ人のことだ、というのです。女々しい泣きごとをいったり、責任転嫁したりせず、自らすすんで前途を切り拓く強い自助、自立の態度の必要性を、露伴は提示しているといえるでしょう。

 

 

 

努力は“能力”だが、“技術化”できる

 

 

筆者も、露伴の説におおむね同意するところではあるのですが、一つだけ気になる点があります。それは、露伴が、努力をもともと人間に内在する本性としている点についてです。

 

 

 

世の中には、努力することが楽しくてたまらないといった感じで、努力する人がいます。その一方で、努力するのが嫌い、できるだけ努力したくないという人もいます。露伴の考えによれば、努力したがらない人は、単なるサボり屋、横着者ということになります。しかし、そう決めつけるのはいささか酷にすぎるのではないでしょうか。

 

 

 

そこで私見を述べます。結論から先にいえば、努力は一種の能力と考えたほうがよいでしょう。自然に努力している人、ラクラクと努力できる人、あるいは努力できるように見える人には、努力の才能があります。それは誰にでも備わっているというものではありません。

 

 

 

このように書くと、もしかしたら「自分には努力の才能がないから」と、あきらめてしまう人もいるかもしれません。
さらに大急ぎでつけ加えます。能力は“技術化”することができるものでもあります。水泳教室でゼロから学んだ水泳の「技術」が、いつしか泳ぎの「能力」に転化するように、努力の能力も、技術化、スキル化することによって、後天的に獲得することも可能なのです。そしてその場合、露伴が挙げた、「直接の努力」「間接の努力」「努力の方向」という3つのキーコンセプトは、努力の能力を身につける際に役に立つ考え方といえるでしょう。

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