日本人は「東南アジア」を似たような国の集まりと誤解しがちですが、実は個性豊かな国ばかりで、知れば知るほど深奥な世界に引き込まれていきます。ただ、個性が異なるとはいえ、どの国も猥雑さとゆるやかさが同居する「アジアらしさ」との共通項で括れる気がするのですが、シンガポールだけは「アジアらしさ」があまり感じられない例外の先進国といえるでしょう。
マレー半島南端のジョホール・バル(マレーシア)からわずか1キロ。濃密なアジア臭が充満する国境の街から、洗練された近代的な摩天楼都市へと劇的に変わるのが、このルートの醍醐味です。シンガポールというと、ゴミのポイ捨て、禁煙エリアでの喫煙、タン・ツバ吐き、電車内での飲食など、公衆道徳に関する厳しい罰則が有名ですが、おかげで街は清潔そのもの。中国を反面教師にしているわけではないのでしょうが、東京23区ほどしかない狭い国土に華人系を中心とした多民族がひしめき、多宗教が混在する国ですから、ある程度、規則で縛らなければ秩序が保てないのかも知れません。
僕の場合は強烈な「アジアらしさ」に魅了されているので、その点でシンガポールは少々物足りない国ではあるのですが、今回は「退屈ではないが刺激も乏しい」、そのシンガポールの思い出を振り返ってみたいと思います。
初めてシンガポールを訪れた16年前、真っ先に向かったのが、おなじみのマーライオンでした。「世界三大ガッカリ名所」(他はコペンハーゲンの人魚像とブリュッセルの小便小僧とされる)などと酷評されていたものの、現地で対面した感想は「まあまあ」という感じ。口から水を噴出するさまは意外と愛らしく、そこまで悪く言わなくても、と思ったものでした。シンガポールの「シンガ(SING HA)」とは獅子の意味。マーライオンが誕生したのは1972年ですが、ちょうどその時期、シンガポールはめざましい経済成長を実現し、ライオンならぬドラゴン(アジア四小龍)と呼ばれるまでになったのは周知の通りです。
そのマーライオン、2002年にマーライオン公園へ引っ越したのを機に、じわじわ人気が高まっているとのこと。引っ越しといっても、移転先はさほど離れていない場所で、海側にビューポイントの桟橋が延び、バックが高層ビル群になったことで、移転前に比べフォトジェニックなロケーションになったのです。そのせいか、最近のマーライオンは、心なしか表情も力強くなったような気が……。
年じゅう蒸し暑いシンガポールでは、散歩のあとのビールが格別。マーライオンが見えるオープンテラスの店で飲んだのは、地元で一番メジャーな「タイガービール」でした。タイでは一番人気の「シンハー(SING HA)ビール」があれば、いっそう気分が盛り上がったのですが。
マーライオン以外で印象深いのが、チャイナタウンとリトル・インディアです。チャイナタウンは瀟洒なシンガポールとは別世界で、むしろ本国よりもディープな華人社会を垣間見ることができました。
ある安食堂で流れていたチャイニーズ・ポップスが気に入り、店員に「この曲の名前は」と中国語で質問し、曲名を書き留めたメモを持ってCDショップに急いだのも懐かしい思い出です。しかし、その後、愛すべきチャイナタウンは完全に姿を変えてしまいました。都市再開発の大義名分のもと、古い街並みは容赦なく破壊され、大型商業施設ばかりの味気ないエリアになってしまったのです。観光資源として残されたのは、無理に中国色を演出した感じがありありの安っぽい「チャイナタウン・テーマパーク」でしかなく、古き良きチャイナタウンは追憶の彼方に消え去ってしまったのが残念でなりません。
17世紀以降、南インドからの移住者が作り上げたリトル・インディア。ここにも開発の波は押し寄せていますが、チャイナタウンに比べれば、まだ南インドの空気は失われていないようです。サリーを纏った女性、極彩色のヒンドゥー寺院、刺激的なスパイスの香り――今のシンガポールで最も落ち着く場所はここ。ステレオタイプの整然としたシンガポールしか知らない人には、ぜひ足を運んでもらいたい異空間です。
全体的に「まあまあ」の印象が否めないシンガポールですが、「アジアらしさ」がないのもまたシンガポールの個性。いつも刺激と興奮の連続では疲れてしまうので、結局のところ、「まあまあ」の旅ができるシンガポールも僕にとっては大切な国なのです。