今回は早稲田大学大学院経営管理研究科ブルー・オーシャン戦略研究所で所長(インタビュー実施当時)を務める川上智子教授にお話しを伺いました。マーケティングとイノベーションを中心に、まるで実務家のような行動力で理論を実践で試していく様子は一労働者としてはもっと奮起せねばと考えさせられるものがありました。
◇電子書籍の普及研究
――はじめに川上教授の研究領域、注力されている分野について簡単にご紹介ください。
私はいくつかのプロジェクトを並行して進めているのですが、最近大きな成果の出たものとしては電子書籍の普及研究があります。今でこそ電子書籍を読まれる方も増えましたが、どうして日本では電子書籍がなかなか普及しないのか、それは何故なのかを研究しました。
まずはやっぱり紙の本がすごく好きという点です。消費者に調査を行ったところ、紙の感触ですとか、ページをめくるという経験、インクの匂いなどの五感に作用する要素を評価しており、利便性や機能性、携帯性が良いといったものだけでは選ばれないことがわかりました。
普通に考えたら日本は国土も狭く、住宅も大きくないので、本棚を置かない方が広くスペースを使えるので合理的と言えますが、とくに高度経済成長期には、知的な豊かさの象徴として、本がたくさんあることが喜びという文化があったんですね。こういった電子書籍普及が進まない背景を検証したのがこの研究になります。
2003年に日本の大手メーカーが電子書籍用の端末を発売しているのですが、普及に失敗し撤退していきました。このときの失敗は読める書籍が限定的であるといったソフトウェア部分にも起因します。ソフトウェアのネットワーク外部性(※)がハードウェア端末の普及にどう影響するのかも検証しました。
※ネットワーク外部性:ソフトウェアの種類が増えるほど,ネットワークの価値が高まり、顧客にとっての便益が増すこと。
◇ブルー・オーシャン戦略
注力している二つ目はブルー・オーシャン戦略の研究です。2016年に早稲田ブルー・オーシャン戦略研究所を創設しました。ただ、2018年8月いっぱいで所長は退任するんですけどね(笑)
――えー!そうなんですか
立ち上げ期は無事に上手くいきましたので、所長は、同僚の池上重輔先生にバトンをお渡しして、私は副所長になります。
話をブルー・オーシャン戦略に戻しますが、実務家に研究の成果をどう伝えているのかという観点でいうと、ブルー・オーシャン戦略という書籍はかなり上手くいっている事例です。ブルー・オーシャン戦略は、ビジネス書ではあるのですが、100年以上の事例をもとにまとめた研究でもあり、その内容を実務に活かせるようなフレームワークに落とし込んだ書籍です。
著者であるチャン・キム教授がフランスに設立した研究所の客員研究員として、数年ほど一緒に仕事をしてきました。今年4月に出版された『ブルー・オーシャン・シフト』の日本語版には、パーク24のケースが収録されました。
◇医療マーケティング
三つ目は医療マーケティングです。実は病院にはあまりマーケティングがなく、プロセスが患者(顧客)中心では組み立てられてないんです。
――お医者様の診察都合でプロセスが組み立てられていますね。
人は一生で一度も病院を利用しないということは、まずありません。その意味では、消費行動として、これほど重要な領域はありません。
たとえば、現代の住環境では個室で暮らす人が多い中、病室は一般的には集団生活です。精神的に参っているときに通常時よりも環境が悪くなる可能性があります。コストの問題もありますが、患者中心にプロセスを組み立てるという考え方をすれば、常識を超える別の答えが見つかるかもしれません。
アメリカではこういった分野はとても進んでおり、Master of Health Administration(MHA)という健康管理、病院管理に関するMBAのようなものがあります。2013年頃に留学して授業を聴講したことがあり、現在もそれをベースに医療者の方々と一緒に学会で研究会を開催しています。他にもこまごまとしたものはありますが、大きくはこの3点です。
――すべてに共通するものはやはりマーケティングということに…
はい。マーケティングとイノベーションが専門です。
――お話を聞くとどれもとても興味深い研究だと思いますが、一般の実務家はなかなか論文を読む機会がありませんが、ご研究内容の普及についてはどう考えていますか?
日本人の実務家は英語が苦手だから論文を読まないと言われていますが、実は英語圏の実務家も論文そのものはあまり読んでいません。ですので、ハーバードビジネスレビューのような学界と実務界をつなぐジャーナルが存在します。最近では、ウェブ上で同じような水準の読み物が増えてきていて、そこがボリュームゾーンになってきています。
私がアカデミズムの観点から危機感を持っているのはそれが必ずしも最先端ではないことです。ピッカーによってピックアップされた論文が掲載されるので、キュレートされた後の情報しか伝わっていないし、実務家向けにピックアップされるので、アカデミズムの最先端の情報は実は伝わっていないんです。日本は最先端から10年くらい遅れている気がします。
――10年も…
ですので、電子書籍の普及に関する論文を動画にしてみました。動画作りは学者の仕事じゃない気もしますが…(笑)。課題として抱いていることは、アカデミズムのガチガチの論文をどう伝えるかで、この問題については学者もいろいろな努力を始めています。アニメーションで5分程度の内容にしていますが、いろいろな方の助けを借りて、作成には1年くらいかかりましたね。
――大変な労力だと思いますが、そこまでする目的とは?
やはり自分の研究は知ってもらいたいですからね。とくにビジネススクールに来てから思うのですが、実務家の方に知ってもらうことはとても重要なので、分かりやすく伝える工夫が必要だと思っています。
――ビジネススクールの教授としてはどのような教育をされているのでしょうか?
ブルー・オーシャン戦略の理論に則ってクラシックコンサートのプロデュースをしています。クラシック音楽は衰退とまではいかないですが、とてもニッチな市場になっていて、高齢者を中心にコアなファンが支えている市場なんですね。ストリーミングなどでクラシック音楽を聴く人はたくさんいますが、コンサートに足を運んで生の音楽を聴く人は限られています。
ブルー・オーシャン戦略の中にはノンカスタマー戦略という考え方があります。つまり、いま現在お客様ではない人を如何に惹きつけるかという考え方です。これをすると既存のお客様の取り合いではないので海が広がります。
クラシックコンサートにおけるノンカスタマーは誰かと考えると若い人だろうと。私の受け持っているゼミのビジネススクール生は30代くらいの方が多く、留学生もいるので、みんなにどんなコンサートであれば参加したいのか考えてもらいました。そこで五感というキーワードが出てきて、プロジェクションアート(デジタルアーティスト長谷川章氏発明のデジタル掛け軸を用いた表現)や香りを用いた五感コンサート(Concert of Senses)が出来上がりました。
この取り組みはブルー・オーシャン戦略のフレームワークを使って本当に上手くいくのかを実証する目的がありましたが、やってみると理論通りにはなかなか動かない。それが何故上手くいかないのかを掘り下げるのは自分で体験してみないと分からないことでした。今回の取り組みではノンカスタマーを狙いにいったら既存のカスタマーが逃げてしまいました(笑)。そういったことはブルー・オーシャン戦略の本には書いてないので、実際にアクションリサーチをしないと分からないことでした。
――アカデミックな世界は事例を抽象化していくことがメインかと思っていましたので、まるで実業家のように実際にプロデュースまでしてしまうというのは新鮮に思えます。
私たちはビジネススクールなので、机上の空論ではなく、実務に活かせることを持って帰ってもらいたいという思いがあり、指揮者の方や楽団の方、その他のたくさんの関係者の方にご協力いただいて、壮大な社会実験を実施しています。
たとえばチラシにQRコードを入れて、そこからホームーページに飛んでもらい、そこからSNSでどのくらい反応があり、チケットが売れるのかといったマーケティング的な分析も学生が行いました。授業ではSNSで拡散させて売れたという事例も学びますが、実際にはなかなかQRコードを読み取ってもらえないし、SNSで拡散もしてくれません。デジタル・マーケティングは万能ではなく、1枚のチケットでも、そう簡単には売れないということが実感できました。
ビジネススクールでは様々なケーススタディをしますので、知識は蓄えられるのですが、実践してみると出来ないという経験、学問と実務のギャップを知ることも大事だと思い、こういったことをやってもらいましたが、ちょっとショックを与え過ぎたかもしれません(笑)
――学問は過去の事例研究なので、実際にはケースが異なるので簡単には上手くいかないと。
そうなんです。環境も状況も文化も違いますので、簡単ではありません。でも、そこで何をするか考えることこそが仕事で、ビジネススクールで学んで終わりだともったいないので、
ゼミで実務に触れて苦しむという感じですね。
――ビジネススクールの学生さんにとっては貴重な経験のように思えますね。
そうだとよいのですが。私はそう思いたくてやっています。答えを探すプロセスを得られれば良いなと。
――最後にマーケティングは一個人にとっても日常の仕事の中で活かせる部分があるかと思いますがそういった観点から見るマーケティングの重要性とは何でしょうか?
やはり自分自身のマーケティングですね。相手に知ってもらい、相手に興味を持ってもらい、そしてその人を巻き込んでいく力が全てに共通しています。そもそも仕事というものがそういうものだと思います。一人では仕事は動きませんので、まずは仲間を作るところから。
先程のクラシックコンサートの例で言えば、クラシックに興味の無い人を動かすということです。管弦楽団を中心にやりたいこと、伝えたいことに賛同してもらい、いろいろな企業や専門家が、単なる資金のスポンサーではなく、協力者として集まったプラットフォームのようなもので、これこそマーケティングだなと思います。
その意味ではマーケティングはただのプロモーションではないし、押し売りでもない。マーケティングが究極的に目指すところは関わった人が全員幸せになることで、個人の仕事の中でも意識していけると思います。
川上 智子(かわかみ ともこ)
大阪大学文学部を卒業。ミノルタカメラ株式会社(現コニカミノルタ)に入社し、基礎研究所で新製品開発・マーケティングに従事。大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(商学)。関西大学教授等を務めた後、2015年4月より現職。
INSEADブルー・オーシャン戦略研究所客員研究員、ワシントン大学ビジネススクール客員研究員(フルブライト研究員)、ナンヤン理工大学アジア消費者インサイト研究所リサーチフェローを歴任。国際的な学術誌への論文掲載多数。著書『顧客志向の新製品開発:マーケティングと技術のインタフェイス』は、日本商業学会賞と日本経営学会賞を受賞している。
2017年にアジア・マーケティング研究者トップ100に選出。