今回お話を伺ったのは、ベストセラー書籍『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)の著者である、一橋大学大学院 国際企業戦略研究科の楠木建教授です。
「ストーリー」や「好き嫌い」という独特の切り口から、競争戦略の要諦をわかりやすく伝えていく楠木教授には、経営者のみならず、人事や研修講師のなかにもたくさんのファンがいると聞きます。そんな楠木教授は、競争戦略という視点から、どのように世界を見ているのでしょうか?
組織の競争力を高めるための人材とはどのような人たちなのか、また、そうした人材は、どのように育成していけばよいのかなど、競争戦略に関わることを聞いてみました。

 

 

事業というリアリティのなかで稼げる人材を育てる

--楠木教授は競争戦略をご専門とされておりますが、ここ数年、その分野で変化などはありますか? まずは、競争戦略という分野の現状について教えてください。

 

とくに変化はありません。私は競争戦略の分野で仕事をしています。それは要するに、競争があるなかで、ある事業がなぜ儲かっているのか、その背後にある理屈を考えるという分野です。基盤にある論理それ自体には変化はありません。

 

競争戦略の基本は、競争があるなかで、競争相手に対してどういう違いを作るのかということです。これは、未来永劫変わらないのですが、もちろんそのときの競争の状況は変わっていくので、具体的な施策が変わってくるということはあります。

 

--競争力を高めるための人材開発という点においてはいかがでしょうか?

 

競争戦略というのは、経営者が担い手となります。ですので、経営ができる人物を育てるということが必要です。「経営者」といっても、法人を代表する経営者や役員ということではありません。会社というのは大きくなると、いろんな事業の塊になります。商売の塊が入っているいれ物になります。そのいれ物を経営する人、つまり、事業集合をどうするかを考えるのがコーポレートの社長で、それとは別に、直接ある事業を担っているという事業経営者がいます。僕の仕事は、この事業経営者を主語にしています。

実際稼いでいるのは事業であり、会社はフィクションです。リアリティは事業のなかにしかない。事業で稼げる人をたくさん作るというのが、今も昔もこれからも、重要な人材育成の課題であると思います。

 

 

経営人材に求められるセンス。それは、育てられず、育つもの

 

--経営者を育成するためには、どのようなことが必要でしょうか?

 

経営者と担当者を区別することが大切です。経営という仕事には、担当がありません。その定義からして、担当者とは違います。ですので、担当者がどんなに強力になっても経営者にはなりません。担当者と経営者の違いというのは、仕事を見ると自明です。まるごと全体を手にする人が経営者で、部分を扱う人が担当者。担当というのは分業の産物です。ファイナンスとか、アカウンティングとか。そのように分業することで担当者が生まれます。

 

経営者と担当者というのは、センスとスキルの違いに還元できます。あなたの仕事はこれですよ、ここからここまでですよ、こういう分野で、こういうKPIで、といえるのが担当者の仕事であり、その分野のスキルが重要になります。ロジカルシンキングや財務、あるいは、なんとか力というようなものです。一方の経営者の仕事、扱う対象が商売まるごとになった途端に、スキルではどうにもならなくなる。センスとしかいいようがないものの勝負になります。

 

ただ、ちょっと難しいことがあります。スキルとセンスの本質的な違いはいくつかあるのですが、そのひとつは、スキルは育てられるものなのに対して、センスは育てられないものであるということです。

 

--センスは先天的に備えられるもの、ということでしょうか?

 

違います。育てる方法があるかどうか、ということです。スキルは、教科書や研修、OJTを通して育てられます。つまり、育てる方法があるという意味で、育てられるということ。センスは、それがない。育てる方法がないという意味で、育てられない。先天的に決まるものではなく、後天的に決まるものだと思いますが、従来のスキル的な育成が成立しない世界なのです。つまり、「育てられない」けど「育つ」ということ。ですので、いかに「育つ」土壌を作っていくかというのが個別の企業に求められます。

 

スキルであれば、育てるための方法があり、提供する会社があるので、それを買えばいい。ひとつのベストのものがあるわけではなく、教育を受ける人の状況やレベルに合わせて最適な方法を選べばいいのです。会社のなかで余計な努力や内製をしなくても、目的にとって一番いいものを買ってくればよい。これがスキルの世界です。ところが、センスというのは、確立した方法がないので、よそから買ってくるわけにはいかない。だから、個別に企業が土壌を作っていかなければならないのです。これが、進んでいるところと、進んでいないところがあるということです。

 

--土壌を作るとは、具体的にはどのように?

 

育てる方法がない以上、「育つ」という自動詞扱いでいくしかない。鶏が先か卵が先かという話でもあるけど、どうやったらいいかという点で一番いいのは、商売まるごと全体を経営してみることです。疑似的な方法もあってもいいのですが、その直接経験を持つのが一番です。逆によくないのは、スーパー担当者の育成がゴールになることです。ものすごい高度なファイナンスとか、ポストM&Aインテグレーションだったら自分は得意だとか。こうしたスキルには労働市場が成立します。市場で値段がつく人材になりましょうというのは、全部スーパー担当者を向いています。ところが、スーパー担当者の先に経営者はない。ここに断絶があると僕は思います。

 

スーパー担当者の育成とは別物として、センスを耕すような土壌を作っていかなければならない。かつてのリクルートがそうでした。はじめは小さくても、若いころからある商売をまるごとやってみるという、そうした場が会社のなかに多かったからだと思います。メインバンク制が生きていたころの日本の銀行も、経営人材の輩出拠点でした。取引先の企業の調子が悪くなったりすると、そこで銀行から出て行って経営的な支援をする。そうなると事実上経営者となり、センスが育つようになります。

 

 

 

成果はセンスとスキルの掛け算。人事の役割は、スキル側の育成

 

--事業の経営者にあたるような人材が育っていることが、会社として求められる状態ということかと思います。そのためには、事業のユニットがたくさんあって、それぞれが延びていくような形がよいのでしょうか?

 

事業経営者を育てるといううえでは、そうだと思います。それは別に、日本に固有の問題ではなくて、世界中どこでも同じものです。経営人材というのは、東西を問わず、もっとも貴重な経営資源になる。だから、これが厚い会社は強い。

 

担当者は労働市場から調達できます。「これからはIoTですよ」となったときでも、高い値段を出せばですが、労働市場から調達できる。もちろん、そういうスキルを持った人の供給や、スキルを身に着けることは大切なんですけど、あくまでこれは、スキルの世界のことです。大切なのは、それと全然違ったカテゴリーがあるということ。この認識が薄いというのが人事の課題です。人事というのは、まさに担当者の集団であり、経営者としてのセンスからは離れた人が集まるところです。ですので、どうしてもそういう方向に目が向かない。

 

--たしかに、人事という役割のなかでは、自分たちで稼ぐということは、なかなか考えにくいと思います。

 

人事というのは、担当者のなかでも、とりわけ職能集団的な集まりです。会社のほかに、人事という機能でできているコミュニティみたいのがあって、そこで会社を超えた役割というのも、活発な分野です。その中にいる人は、当然自分は人事担当者としてスキルを磨いていくでしょうから、非常に担当者的な世界となります。そうしたことから、スキルを超えたもの、担当を超えたものということを、実感として考えにくいのではないでしょうか。

 

--一方で、事業経営者の育成や、人材の采配を考えていくという機能も、本来は持つべき組織かと思いますが。
 

それは人事の仕事ではありません。経営者がやるべきことです。経営者の重要な仕事は、次の経営者が育つ土壌を作ること。それは人事に任せることではありません。

 

--人事の担える役割としては、そのなかのスキル部分に絞った育成であるということでしょうか?

 

そうです。経営者のセンスと担当者のスキルの掛け算で成果が出るのは間違いないので、どちらも大切なのは確かです。ただ、センスとスキルが違うということだけは、わかっておかなければならない。逆にいうと、本当に経営人材の育成まで、センスの分野まで踏み込めるような人事があったら、素晴らしいと思います。

 

 

 

センスがある人は、センスがある人にしか見極められない

 

--土壌を作るということのほかに、対象者を選抜する、見極めることも大切ということでしょうか?

 

そうです。向いていない人は、絶対に近づけないこと。スキルは、適切な方法で努力すれば、必ず前よりできるようになります。ところが、センスは違います。努力が足りないとかではなく、向いていないということ。ここの見極めは非常に大切で、向いていない人がやると、すごく苦しくなる。本人も会社も、お互いにいいことがない。とにかく、向いていない人は近づけない。社長と比べて事業経営者は人数が必要なのですけど、だからといって、みんながみんな経営センスをもった経営者になる必要はまったくありません。100人に1人いれば御の字だと思います。そこがスキルと違うところです。

 

--向いているかどうか、今後センスが伸びていくかどうか、ということはどのように見ればよいのでしょうか?

 

それは、センスがある人ならすぐにわかることです。よくいう「金の匂いがする」とか。「こいつだったらなんとかしそう」とか。そういうことです。だからこそ、経営者の育成は、とにかく社長のイニシアティブでやらなければダメです。

 

--言語化できない範囲なのですね。

 

センスの360度評価といったらセンスがありません。センスがない人に「お前センスあるな」と言われることほどよくないことはないんです。センスは3.6度くらいでしか評価できない。センスがある人が見ればわかるんですね。

 

--その意味でも、経営者の視線で見定めていくしか方法論がないということですね。

 

そうです。見極めるための試験はありません。試験をしようと思った時点でセンスがない。すぐに「できるできない」といってレーダーチャートを作ったりしますが、それは違います。測定するということは、全体を要素に分解できるという前提があるからです。これが非常にスキル的な発想なのです。洋服のセンスがいいみたいな話ですね。靴下がいいとか、ネクタイの結び目がどうとかではなくて、全体としてのセンスがいいということ。ところが、センスがない人が、それをスキルだと思って、洋服の本とかを見たり、洋服にお金を使ったりすると、ますますひどいことになってしまう。それは最初のところが間違っているんです。

 

 

 

 

「好き嫌い」によるドライブがセンスを育てる

 

 

--楠木教授は、経営や才能と関連して「好き嫌い」の重要性をよく述べられていますね。

 

はい。センスは「好き嫌い」で、スキルは「良し悪し」。どちらも価値基準なのですが、「良し悪し」は社会的に広くコンセンサスが成立している価値基準で、一方の「好き嫌い」は局所的な価値基準という違いになります。たとえば、「天丼が好きですか、かつ丼が好きですか」というと、局所的な価値基準になります。その人にとってどちらがよいかであり、一般的なコンセンサスは成立しません。このように「好き嫌い」と「良し悪し」を区別しています。

 

--その「好き嫌い」が、センスを持つうえでも重要な要素になるのでしょうか?

 

「好き嫌い」はセンスの駆動力になります。好きだから、余人をもって代えがたいところまでいくわけですよね。ようするに、インセンティブが効かないのです。一方のスキルはインセンティブが効く。たとえば、「TOEICの点が上がって英語が喋れるようになったら、こういう昇進の機会が開けるよ」という感じです。逆に、「この点が取れないと、もう課長にはなれないぞ」みたいな逆のインセンティブもある。いずれにしろ、その人の行動を促す誘因を与えて、スキルを付ける方向にもっていくんですね。ところが、「好き嫌い」はインセンティブが効かないんですよ。命令ができない。

 

--好きになれと言われても、好きになれないということですか?

 

そうなんです。巨人ファンにどんなにお金積んでも、阪神ファンにはなりにくい。なる振りくらいはするかもしれませんが、心の底から本当に、ということはできない。好き嫌いはドライブなんです。インセンティブではなくて。つまり動因ということです。自分が好きだから、中から出てくるというもの。

 

--動因があることで、センスが育っていくということですか?

 

「好き嫌い」の強みというのは、努力の娯楽化ということなんです。本人は好きでやっているということ。経営の「好き嫌い」でいえば、もう舌なめずりするほど商売ごとが好きなんです。生理的に好き。いろんな商売のタイプがあるにせよ、もう金儲けが大好き。もちろん、経営の仕事は大変だと思います。仕事も忙しいし。ただ、はたから見るととても努力しているように見えても、本人にとっては娯楽なんです。努力の娯楽化というメカニズムが作動している。この状態が、もっとも努力ができるんです。

 

客観的に見たら、努力が継続している状態です。その先にしか、僕はセンスというものは出てこないと思います。100人に1人の「異様に出来る」ということですから、相当な努力が必要です。これは、ファッションセンスにもたとえられます。ファッションセンスがいい人は、ファッションが好き。まったくインセンティブがなくても、自分でいろいろ試行錯誤して、失敗を重ねていく。そうした努力のうえに、ファッションセンスが作られるということです。

 

--ファッションセンスをつけようと思っても、どうしたらいいか困りますよね。

 

センスというのは「人に失礼がない、TPOにあった清潔感のある服装をしましょうね」という話じゃないんですね。そっちであれば、テキストもあり、研修があり、インセンティブがあり、ルールがある。スキルの世界で、なんとかなるんです。

 

非常にシンプルな話で、ここを区別するだけで、かなりの問題が解決される。逆に言うと、ここをごっちゃにしているのが、さまざまな悲劇の発端であると思うんですよね。

 

--センスがない側からすると、その人たちが努力をしているように見えてしまうので、努力して積み上げていけば届くのだと思ってしまうのでしょうか?

 

ほとんどの場合、積み上げというのはスキルの世界のことなんで、向かっている先が違うということになります。センスがある人は、いろんなことがあって生まれています。センスがある人を取り上げて、どうしたらこうなるかといって要素に分解したりしても仕方ないのです。いろいろあってこうなっているとしか、本人は言いようがないので。

 

--個人としてセンスを高めたいと思ったとしても、答えはないわけですね。なにか方法はないのでしょうか?

 
やはり、経営をしてみるというのが大切なことです。みんな同じことを言ってるんですよ。時代背景は違いますが、松下幸之助さんが事業部制や分社化をやったのは同じロジックですし、稲盛さんのアメーバ経営も同じ。ファーストリテイリングも、ひとつのお店自体が経営者となっていますし、中国進出しようというときに「じゃあ私が考えて動かしていきます!」という人が必ず出てくる。あのように成長している会社だと、次から次へとそういう商売の塊みたいなものが出てきます。会社という器のなかに商売の塊がいっぱいあるので、若いうちからまるごとやるという機会も多いわけですね。

向いてなかったらそれまでで、スキル側の道をいけばいいだけです。経営のセンスがなくても、別のことにセンスがあるかもしれませんし、ビジネスの場合、100人中99人はスキル側でよいので。困るのは、向いているのか向いていないのかわからない状態で進んでいる場合です。センスとスキルの違いを区別して、このような状態を避けることが、まずは大切ですね。

2018年8月14日 公開

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