――陸上選手として入部した筑波大学陸上部で、スプリントの技術がちゃんと確立されていなかったということが、コーチ学を学びはじめたきっかけだとのことですが。
いや、誰もわからないんですよ。「ドーン!」と鳴ったら、一生懸命走るだけですよ。それこそ、30メートル走って「4秒0」が出たとするじゃないですか。次は「3秒9」で走りたいと思います。じゃあ、「3秒9」で走るにはどうしたらいいかっていうと、「気合入れろ!」しかなかったですよ。
――指導者と言われるような方はいらっしゃったのでしょうか。
コーチはいましたけど、そういうコーチではなかった。それこそ、「なにを努力したらよいか」は教えてもらってなかった。頑張ることを教えるし、頑張ることの素晴らしさとかね、根性というか、自分が人として成長していくことの素晴らしさは、大学なので、いろんな方がおっしゃってくれるけど。でも、なにを身につけたら速くなるかはわからないまま終わったので、「そういうことをきちんと教えられる人になりたいな」と自分の中で思いました。
――陸上部監督として指導をはじめられた頃は、今ほど強豪ではなかったということですが、どのような気持ちをもって入られたのですか?
普通の田舎の大学でした。でも、やっぱり夢はありますからね。最終的な夢は、オリンピック選手を育てたり、日本のトップクラスの選手を育てたい。日本記録を出したいというのは、当然ありましたね。
――当時の教え方と、今の教え方における違いはどのようなものでしたか?
その頃はもう、教え方はなんにも知らない。自分の経験則をただやるだけですから。気合と根性ですよ。猛練習。たくさん練習やれば、強くなる。だって、方法がないんだから。「なにを頑張ったらいいか」という、その中身がわからないんですよ。わかってはいるんでしょうけど、所詮は自分が経験した、見聞きしたものでしかないんですよ。そんなものは、たかだか狭いものじゃないですか。それが年をとっていくにつれて、いろんなものを見てきて、そして、自分のなかで違いがわかる。学生なんかにもよく言うんだけど、「わからなかったら、まずは真似をしなさい」「ミラーリングで構わないから、まずは真似をしていけ」って。当時でいうと、日本中のいいコーチの真似をしていった時代ですよ。こういった練習があれば、その練習をそのまま行う。だけど、それは所詮そこまでです。
――その後、元世界記録保持者カール・ルイスの指導者であるトム・テレツ氏との出会いを経て、現在のトレーニング法を確立していったということですが。
34から35になるときに、カナダとアメリカに行きました。ヒューストン大学では、カール・ルイスのコーチであるトム・テレツのところにいって話をしたんですが、そこでぜんぜん人生観が変わりましたね。6月に行われた全米選手権でリロイ・バレルが世界記録を出して、9月頭の東京の世界選手権でカール・ルイスの世界記録を生み出した人です。一人のコーチがたった数ヶ月で、二人の世界記録保持者を出すんですよ。どんな先生なのか、どんなコーチなのか、どのくらいの人なのかと思って話をお伺いしたら、「ああ、ぜんぜん違う」と。やっぱり世界の、それこそトップの技術ってものがすごいってわかったし、カール・ルイスが走り幅跳びを跳んで「チェックポイントが200ある」と聞いたときに「そんなかよ!」って思ってね。今なら、僕らもありますよ。池田久美子(女子走り幅跳び日本記録保持者[2006年10月現在])で言えば、100いくつは。でもそのときは、「そんな、おれ、10個くらいしかねーよ!」って思って。「ここなんだ」と。
結局は、自分のオリジナルを生めない限りは、絶対に勝てない。「盗んでいちゃダメだ」と。そういわれてみれば「日本の企業で成功しているところは、みんな自分で新しいものを作っているじゃないか」と。それから、自分オリジナルのスプリントを作っていこうと思いました。
――トム・テレツ氏から基礎の部分や考え方、トレーニング方法などを学ばれたということですが、やはり理論立ててわかるように説明してくれましたか?
ベースになっているのは、いわゆる力学の本(『陸上競技ダイナミクス』[原書:Track and Field Dynamics])ですよ。もう、すごく古い本で、日本じゃ廃刊になっています。ここに書いてあるのは、もう簡単なことなんですよ。(名刺入れを中空に持ち上げ、これを手から離して)落ちるって、これだけ。ニュートンの第三法則が書いてあるだけなんですよ。全部。物理の法則を、どう陸上競技に生かすかっていうことしか書いてないです。これを見て「ああ、なんだ」と。もう「なんだ」ですよ。「物は上から下に落ちる」これだけ。それを上手く使えば、競技もうまくいく。