自分がいやだと思うようなことを人にしてはいけない。人間にとって最高の徳は、この教えから始まるのです。つまり、善行を積むまえに、まず自分の行動を慎み、全体のルールに従うということが大切です。 |
孔子の弟子のなかで、もっとも徳行の秀れた弟子といわれた顔淵との会話をまとめた章にこの有名な言葉は出てきます。当たり前のことで誰にでも分かりやすく述べてあり、参考になります。
孔子の教えのなかの「仁」という徳目がよく挙げられます。これが「最高の徳」という意味に使われているということは知られていますが、実生活上の応用はなかなか難しく、孔子もいろいろの言い回しで具体例を示して説明しています。
まず、孔子は顔淵に向かって、「仁とは克己心を身につけて、秩序によく従うことだよ」(おのれに克ちて、礼に従う、これ仁となす。)と答えました。自己をおさえて、自然にルールに従うようになれば最高の共同生活ができるのだ、と教えたのでした。顔淵は重ねて、一生守らなくてははらないのは何かを尋ねたところ、「それは恕か。おのれの欲せざるところ、人に施すことなかれ」と返事をしたのでした。「恕」は許すということです。
孔子の考えていた最高の徳を、なにか深遠の教えで、一つの哲学の理論のように説く学者もいますが、この会話の原文をそのまま辿ってみると、たいへん世俗的に「仁」のことを説いています。顔淵に説いたこの格言は、一般レベルの人にも分かる言葉で表現されています。
家族、友人関係、同郷の人、そして会社の同僚、国を構成している人びとはどうしたら共同生活を円満に営むことができるかという共通の命題を持っています。
孔子は、「まず許し合うことだ、そして自分のいやだと思うことは、人に対してもやらないことだ」と平易な言葉で教えたのでした。
現代社会にこの教訓をあてはめてみても、利害関係が鋭く対立しているため、実行するのはなかなか難しいものです。
たとえば、国際関係では国益が厳しく対立していますし、国内でも、団体や企業がそれぞれの利益のために、しのぎを削っています。
したがって、相手のいやがることを、手投を選ばずに実力行使することはままあるようです。当然、共通の利益のために働く人びとは調和して、力を合わせて働かなければならない筈ですが、相互に中傷しあったり、足のひっぱり合いをしたりして、相手のいやがることばかりやっているようにさえみえます。
家族のなかにさえ利害関係を持ち込んで、いやな仕事を人に押しつけ、なるべく良い思いを自分で一人占めにしようとしたりします。
このような考え方を排し、他人に嫌な思いをさせないように心掛ければ、きっと自分にとっても暮らしやすい世の中になるでしょう。