自分が誤っていると悟ったなら、躊躇なく、すぐ改めるべきです。いたずらに体面や人のおもわくを考えて、改めるのを恐れてはいけません。 |
過ちについての格言も中国の故事のなかに多く見られます。関連のあるものを二・三あげてみましょう。
「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」
「小人の過ちは、必ず文る」
「過ちは好む所にあり」
まず、表題の語句は、論語・学而にみえるもので、「己に如かざる者を友とするなかれ、過ちては則ち改むるに憚るなかれ」と続きます。
つまり、「自分より劣っていると思われるものと、いい気になって交際していてはいけない。また、間違ったと気付いたらすぐ改めた方がよい」といっているのです。
また、「過ちを改めないのが過ちなのであるから、過失をおそれるより、過ったらそれを是正しない態度の方が問題です」「凡人は得てして、過ったときなんとか弁解したり、とりつくろうように行動するものです」「失敗は、得てして自分の得意としていることから起きることが多いのです」というものが、それぞれの諺の意味です。どれも古代のものとは思えないような、新鮮な教えとして私たちの心に響きます。
一般的な心情からいえば、人生行路のなかでは、失敗しないということがまずあって、次には失敗したら人に知られないように隠して処理しようと思うものです。また、自分の欠点に気付いても、これを正すことは難しいようです。小さなメンツにこだわったり、体面上の理由で頑固に自説を曲げない人も見られます。
このような態度は、結局は自分の度量を狭め、人間関係がスムーズにいかない原因ともなっているのです。この点中国の哲人は「過ちについての哲学」をいろいろの角度から考えていたようです。
過ちはどのようなときに起こるのでしょうか。
「それは善およぐ者は溺れ、善く騎る者は堕つ、各々その好むところを以って、反って自ら禍をなす」 つまり、泳ぎの名手は、未知の海や、急流などで泳ごうとするから、溺れる機会に遇うし、馬術の達人は、荒馬を乗りこなせると考えたり、危険な障害物を飛び越そうとするから大きな事故につながったりする。結局は、各人が好きで得手だと思うことから、不幸が起こってくるものです。
つまり、自分が不得手で用心深く慎重に行動している場合は、過ちは起きにくく、むしろ自信を持って得意になっているときに起きるのだと教えています。
したがって、失敗しても隠せるものなら、人に知られないで過ごしてしまいたいという心理がおきるのかも知れません。
私が間違っていましたと詫びるのはなかなか難しいものです。