歴史の「なぜ?」を探る旅 ― そこから見える、人生の智慧、生きる秘訣

歴史は成功者だけのものではない 

 

 

――今回取り上げていただく武将たちは、結果的には敗者となった人たちですが、彼らから得られる教訓はあるでしょうか?

 

それは前書きで書こうと思っています。歴史は、成功者のものだけではありません。失敗した経験というのも大事なんだということは明らかにしたいと思っています。後世に与えた影響もあり、現代の我々にもプラスになるようなことはあるわけです。

 

――歴史で「もし~」を言ってはいけないのかもしれませんが、彼らはもしどうしていたら失敗せずに、歴史の中心人物になりえたでしょうか?

 

全員には共通しないけれど、ひとつは謙虚さがなかったこと。今川義元にしても武田勝頼にしても、やや「俺は絶対だ」と思っていたところで足下をすくわれています。あまりにも言い古された言葉ですが「油断大敵」ということは共通していますね。特に勝頼の場合、父親の武田信玄をちょっと乗り越えたんじゃないかなと思ったところで、長篠設楽原の戦いで負けてしまう。これはやっぱり過信ですね。
北条氏政もそう。小田原城は、戦国一、二を争う難攻不落のお城。氏政が若い頃、父親の北条氏康の時代、上杉謙信に攻められて籠城して撃退。数年後、武田信玄に攻められても同じように籠城して撃退した。その経験が記憶に強く残った。過信とは少し違って、経験重視は身を滅ぼすといことは言えます。秀吉の小田原攻めにあたって、「上杉謙信、武田信玄という戦国を代表する名将でも小田原城は攻め落とせない」という今までの経験が頭をもたげて「秀吉何するものぞ」という思いになったところが氏政の失敗だと思います。情勢や、自分の置かれている状況と秀吉の軍勢の質の違い。そこに気づかなかった氏政の失敗でしょうね。
それは、ある意味では人間の生き方でもあります。自分の想いを貫いて滅亡するか、多少妥協してでも生き残ろうとするか? 今回のこの七人。義元は少し違うかもしれないけれども、みんな頭を下げてしまえばある程度生き残れた人たちだと思います。
浅井長政などは、信長から三年間小谷城を攻められているけれども、信長が三年もかけて攻めようというのは珍しい。信長はひじょうに短気な人だから、すぐに城に火をつけて焼き殺す。それをしないで気長に待ったというのは、長政が頭を下げてくるのを待ったということです。長政が頭さえ下げていれば、その後、信長は家康と長政を左大臣右大臣みたいにして、兄弟のように三人手をたずさえて天下統一に向かう。そういう目論みを持っていたから長政を最後の最後まで説得しようとしたんですね。けれども、長政はちょっと我を張り、意固地になったということですね。

 

――浅井長政は、そこまで能力のある人だと信長に思われていたんですか?

 

信長はそう見ていましたね。信長が足利義昭をつれて上洛した後、すぐに他の武将たちにはいろいろと恩賞を与えているけれども、長政には特に与えていない。それを浅井の家臣たちは「信長は自分たちのことを低くみているのではないか」と憤るような雰囲気が出てしまう。信長にしてみれば長政は自分の妹婿で、将来手をたずさえていく人物だから、今そんなに優遇しなくても、ある程度天下が治まった時に大国を与える。そんな思惑を持っていたのを長政やその家臣は理解できなかった。でも、長政のほうからすれば、ちゃんと説明してくれないとわからなかったということですね。 

 

 

小和田先生が明らかにしてきた武将たちの実像 

 

 

――この七人の中で、先生が特に注目したいという武将は誰ですか?

 

今までの自分の研究歴からして、今川義元、北条氏政、浅井長政。この3人は、自分がずっと追いかけて実像を明らかにしてきたという想いがあるので、重視したいと思っています。もちろん人気の点で言うと、真田幸村。また最近、明智光秀に対する評価もずいぶん変わってきたということもありますね。

 

――今川義元、北条氏政、浅井長政。先生がこの3人を研究対象に選ばれた理由は?

 

義元は地元(静岡)なので卒業論文で取り上げました。長政に関しては、その後大学院に進む時に、指導の先生から、「もっと小さい大名でやって、その大名についてはあいつに聞けと言われるぐらいまでやったほうがいいよ。義元は大きすぎだ。領国が大きいから完璧にはできないよ」とアドバイスを受けましてね。たまたま学生時代に近江の研究もしていたので、「浅井長政はどうですか?」と言ったところ、「おもしろいかも」と言われたんですね。
北条氏は大学院の博士課程に入った頃に自分の先輩が北条の文書をいろいろ集めていて、その資料を「使ってもいいよ」と。いろいろ勉強させてもらったのと、ちょうど後北条研究会という研究会ができて、その役員もやりながら研究していった。
ある意味では偶然なのかもしれないですけど、いずれも滅びさった大名。滅びたということにシンパシーがあることも事実ですね。「なぜ滅びたのかな?」ということをえぐり出すことによって、同じ失敗は繰り返さないようにという人生訓にもつながっていきますからね。今回はそれも出したいなと思いますね。

 

――義元はどのような人物だったのでしょう?

 

補佐役に恵まれていましたね。雪斎。その雪斎が早く亡くなったというのが、ある意味では桶狭間の敗戦の遠因でもある。それと、今の静岡県の磐田に見付という町があって、そこの町人たちが堺と同じで町人の代表が集まって町の自治を展開していた。その町に義元が介入しようとした時に、町人たちが連名で「町の年貢を年100石から150石にします。そのかわりに従来通り自治を認めてください」と言った時に、「わかった」と了承している。これは、後の信長の生き方と違いますね。信長は堺の自治を圧殺している。信長は一向一揆と敵対して、民衆の民衆による政治をつぶしますよね。義元はむしろ民衆の力、町人たちの力をそのまま活かそうとしていた。歴史にもしもということは言ってはいけないかもしれないけれども、信長が勝たないで義元が生き残っていれば、また少し変わったとは思うんですね。

 

――北条氏政はどんな人ですか?

 

北条家の領国を最大版図にしたのが氏政の時。今の群馬県、栃木県の一部あたりまで勢力圏にしていて、かなり大きな力をふるった大名ですね。元々は伊勢氏という京都の名門でもあって、それらのプライドから百姓出の秀吉なんかに頭を下げられるかという思いがあったのかもしれない。結局は頭を下げられず、秀吉によって滅ぼされる。まあ家督を譲った氏直が降参してしまうわけですけどね。氏政は最終的には切腹させられて、最後の最後になんとなくダメな烙印を押されてしまっているけれど、ダメな武将ではなかった。
たとえば、小田原評定という言葉がありますが、一般的な解釈だと、トップである氏政、氏直にリーダーシップがなく、部下たちが勝手にああだこうだと言って、会議が長引いて結論が出ないことの例えみたいになっている。私は『小田原評定』(名著出版)という本も書きましたが、当時の家臣、家老衆20人を集めて評定をやっているんです。月に二回。今の民主主義の走りみたいなことと言っていいでしょう。会社で言うと重役会議を月に2回やり、意見を聞いて方針を決めている。そういう意味ではすごく進んだ大名だったと私は理解しているんですけどね。

 

――先生は、光秀に関しても新たな見方をされていますが。能力はかなりあったと思っていいのでしょうか。

 

2011年の大河ドラマ『江』でもちょっと私の意見を活かしてもらいましたが、光秀は信長からひじょうに信用され、頼りにされていたと思います。でも光秀のほうはその信長の気持ちをちょっと理解してなかった。今でもけっこうありますよね。自分の気に入った部下には、厳しいことを言って鍛えようとするけれども、部下のほうはいじめられているように思ってしまう。信長にしてみれば、こいつが俺の跡を継ぐようなものだという思いで、厳しくあたったけれども、光秀のほうは嫌われているんじゃないかと思ってしまう。それが、謀反を起こすひとつのきっかけにはなっていると思いますね。

 

――長政のことも考えると、信長が自分の真意をちゃんと伝えられれば歴史は変わっていたのでしょうね。

 

そういうところはありますね。信長がもっと気持ちを伝えるのがうまかったら違っていたでしょうね。秀吉はへらへらしながらもやっていけたでしょうが、光秀は学者肌みたいなところもあるし、考えこんでしまったんでしょうね。長政に関しても、もうちょっと理解していれば一緒になって天下をとれていたかもしれない。

 

――真田幸村という人は、知っているつもりでしたが、どういう行動をしたのか調べようとすると、意外にわからないことも多いようですね。

 

真田十勇士自体はまったく架空ではないですが、史実ではなく、立川文庫の世界ですよね。真田幸村は小説などでも名前はよく知られていて、今また幸村人気がすごく高い。幸村は、関ヶ原の時の上田城攻めの時は、徳川本体3万8千の軍勢を小さな城で防いだのを見ると、ある意味すごい軍略家だったとは思います。もちろん父親の昌幸も一緒でしたが、これはすごいです。それに大坂の陣。特に冬の陣の時に、真田丸の出丸を作って冬の陣最大の激戦が繰り広げられた。そこで勝っている。軍略はすごく優れたものを持っていました。ただ負け組についてしまったというところが悲運というしかない。幸村がもっと場所を得ていれば、違った状況になっていたと思いますね。

 

 

小和田先生流の歴史探求に学ぶ 

 

 

――昨年先生に書いていただいた『秀吉と七人の部下』の三巻目は「縁の地を歩く」というテーマで作らせていただきました。いくつか実際に古戦場を歩いてみると、すごく身近に感じることができました。

 

私は昔から歩く歴史学というのを提唱しています。『歴史探索入門』(角川選書)という本に詳しくはありますが、歩いて発見する歴史ということを書いています。例えば、「この場所にほんとうに5万の軍勢が入ったかな?」ということを考えながら実際に行ってみると、今までの通説がちょっと揺らいでくる。そういう場面はけっこうあるんですよ。
 もっと細かく歩くこともあります。近江の菅浦、琵琶湖の北端で、賤ヶ岳が近く浅井三代の支配を受けていたところですね。そこへ行った時、たまたま『民宿太郎兵衛』という民宿に泊まり、聞くと「太郎兵衛」は、屋号だという。それから菅浦の家の屋号を一軒一軒聞いて歩くと、屋号がかなり残っていて、その屋号が室町時代、戦国時代の人名と重なる家がたくさんある。ということは、その時代から何百年も住んでいるわけですね。同じ家、一族が。たまたま泊まった民宿から調査が始まったような話。そういうふうに歩いて調べてまわるのは好きですね。歩いて発見したことは、自分の今までの経験としていくつもあります。

 

――固定観念を持たないこと、資料を疑えというような先生の姿勢自体にも学ぶべきことがありますね。

 

これまで歴史上の通説や定説は、なかなか変えられないものだというイメージが強かったと思います。ですが、最近になって新しい資料が発見され変わることも多い。山本勘助などはいい例です。架空の軍師だとも言われてきたのに、最初は1通の文書が見つかって、その後2通3通と出てきた。実在だったということになってきた。新しい資料が発見されることによって、通説が書き変えられるということもあるわけです。また、見方を少し変えていくことによって通説が書き変えられることもあるんですね。

 

――先生の文章では、ある事項に複数説がある場合には、それぞれの根拠、信憑性を明らかにして次に進まれますが、常に疑っているということでしょうか?

 

歴史のおもしろさはそこにあります。ああも考えられるし、こうも考えられる。では、自分はどう考えるのか? いろんな材料をふまえた上で、こう考えるしかないなというところが出せるおもしろさがあると思います。学校で習う歴史は、「何年何月誰々がどうした」とそれが事実であると刷り込むようなところがある。それでは考える余地がなくなってきてしまう。そうではなく、資料を並べて、こうも考えられるんじゃないか?というところをもうちょっと深入りしていくと新しい発見が出てくる可能性もある。そのおもしろさは多くの人に気づいてもらいたいと思いますね。

 

――歴史を学んでいく意義がそこにありそうですね。

 

歴史を学ぶ意義という点で言うと、過去を過去としてとらえるのではなくて、これからの自分にどう参考になるのか?という点が大事なことだと思います。歴史は、何人かの英雄、政治家が動かしてきたというふうにとらえられがちですが、自分も含めて一人一人の人間がひとつの小さな歯車となり、それらが様々に絡み合って大きな時代の流れを作っているわけです。それに気がつくということにも、歴史を学ぶ意義はあると思いますね。(了)

 

 


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