歴女ブームが、未だ知られざる歴史の扉を開ける!?
―今、ちょっとした歴史ブームで、歴女の出現などかつてない面白い現象が起きています。小和田先生は、この歴女といわれる人たちの誕生を、どのようにご覧になっていますか?
城跡や古戦場を歩いていても、ここ3、4年、若い女性とすれ違うということが多くて、確かに歴女ブームだというのは実感しています。
若い女性たちの歴史への入り方はどうであれ、戦国時代に熱い想いを持っていて、歴史の背景にあるものは何なのか?という、歴史の深みに触れていくんですね。そこで何か新しいものを学び取ろうという姿勢も強くなっていると思います。彼女たちが子育てをする立場になれば、歴史好きの子どもが育つでしょう。歴史好きの裾野が広がり、その分だけ、今まで知られていなかったような埋もれた資料も見つかってくるでしょう。現在我々が知っている資料は、実際に存在している資料の半分くらい。半分は埋もれているはずです。そういうものを発掘する大きなきっかけになると思いますね。
歴史を学ぶ二つの意味
―歴史は生きた教材だとする考え方がある一方で、ドイツ人哲学者ヘーゲルのように「歴史から学べないことが歴史を知って解かった」という逆説的な意見もあります。小和田先生は歴史から何を学んでほしいとお考えですか?
先人の成功例から学ぶこともありますが、私は失敗例からも学ぶということが必要だと思います。諺に「前車の覆るは、後車の戒め」、「覆轍(ふくてつ)を踏踏まず」とあります。先人の失敗を見て、自分はどういう道を歩んだらいいか?を考える。
秀吉はあまり歴史を学んでいなかった。だから彼は失敗したという側面があります。家康が駿府から江戸に移される天正十八年。秀吉としては、別に家康を関東にやらなくてもよかった。もし秀吉が歴史を学び、関東の一種独立的な風土を知っていれば、そんな関東に家康をおくことはなかったでしょう。古くは平将門の乱。源頼朝の鎌倉幕府樹立。享徳の乱(1455年からの古賀公方の反乱)。歴史的に見ると関東に独立国を造るというような動きがあるのは、関東の風土です。
もうひとつは人間の生き方です。歴史を学ぶことによって目標を得られるという側面があります。徳川家康の愛読書の『吾妻鏡』には源頼朝が挙兵して、鎌倉幕府を樹立していく過程が、詳しく書かれています。
家康は「自分も頼朝が鎌倉幕府を建てたように幕府を建てたい」と目標をそこに定めることによって、秀吉のもとで隠忍自重の何十年間を過ごせたんだと思います。
歴史が語るごとく、ニューリダーは必ず現れる!?
―このところの日本の首相は〝年替わり首相〟という印象があります。戦国時代、明治維新と、大きな混乱の後に安定した体制が出来るという皮肉もあります。小和田先生は現在の混乱をどのようにご覧になっていますか?
二大政党になった時には、群雄割拠だなと感じました。それまで自民党政治がいいか悪いかは別として、なんとなく治まっていたわけですよね。それに拮抗する政党が出てきて、政権交代があり、民主党の党首が1年くらいでどんどん替わってしまう。後世、政権は安定していないという批判は受けるでしょうね。ひとつには自民党の悪政のつけがここに出てきたということ。また現状でのリーダーシップが少し欠如しているということでしょうか。
財政力、経済力を持った人物が国を治めることで、天下は治まるという側面はありますね。戦国時代は、大名たちが群雄割拠していた中で、ある程度経済に注目した武将が出てきた。それが信長であり、信長の後を継いでさらに上をいったのが秀吉です。秀吉は、今で言う内需拡大政策を成功させ、それで日本を天下統一という形でひとつに治めました。
―今の日本にリーダーシップをとれる人間は出てくるのでしょうか?
歴史を振り返ってみると、出てきますよ。いつの時代も、混沌とした中から次のリーダーがきちんと出ていきます。このままずるずる泥沼ということにはならないと思います。ただ、今の段階で、誰がどういう形で出てくるかは、まったく予測はつかないですね。5年や10年では無理かもしれない。今の若手のニューリーダーの中からだんだんみんなから推されて出てくるんじゃないですかね。
秀吉と七人の部下から学べること
―今回執筆いただいた「秀吉と七人の部下」では、秀吉と七人の部下たちの視点から、リーダーの本質と人間力を捉えるという新たな試みになりますが、小和田先生がこのテキストから学んでほしいと思っていることはどのようなことでしょう?
プレゼンテーション力、プランニング力は、秀吉本人、秀吉の部下の売りのひとつです。それに彼らが持っている人材育成力、交渉力などは、リーダーの本質として、今かなり求められていることだとも思います。それらの力を具体的に歴史の事実として、誰がどういう場面で発揮したのか?ということは、私としても、実務に関するスキルに直接結びつけた新たな捉え方で、おもしろいと思っています。それはこのテキストでぜひ学んでほしい点ですね。
もっとも学ぶべきは石田光成
―この七人の部下で、もっとも魅力を感じる、われわれビジネスマンにとって大いに学ぶべき点がある部下(武将)は誰でしょう?
自分で本も書いているということもありますが、石田三成が果たした役割はすごく大きいし、ダントツのトップです。よく、竹中半兵衛、黒田官兵衛がいたから、秀吉はあそこまで行ったと言われます。でも、むしろ三成の補佐がなければあそこまではいかなかったと思います。実務的にすごいんです。秀吉政権、豊臣政権を支えたのは三成だなと思っています。そういった意味では、今のビジネスマンたちは三成の姿勢をぜひ学んでほしいと思いますね。
いろいろなところで「なんで、あいつは負けるとわかっていた関ヶ原に突っ込んでいったんだ」とよく言われます。そんな言い方されるとね、私も「いや、そうじゃないよ」と強く言ってしまうんですけどね。関ヶ原は、無謀でもなかったし、勝っててもおかしくなかったとも思います。
大河ドラマは、史実とドラマの間の葛藤
―小和田先生は多くの著作のほか、NHK大河ドラマの時代考証もされていますが、面白いエピソードなどあればお聞かせいただけますか。
1996年に、竹中直人が演じた『秀吉』で最初に時代考証をやりました。その時は堺屋太一さんが、あの大河ドラマのために原作を書き下ろすというものでした。
書き下ろす段階から私が時代考証に入っていたので、「秀長がいたからこその秀吉の活躍というところを描いてほしい」と堺屋さんにお願いしました。堺屋さんもその少し前に『豊臣秀長~ある補佐役の生涯~』という小説を書いていましたから承知してくれて、高島政伸さんが秀長役をやり出番も多かった。まわりからも「秀長があんなに豊臣政権のためにやっていたというのは知らなかった」という声を聞きましたから、これは成功ですね。
『天地人』(2009年)では、直江兼続(妻夫木聡)が主人公でその盟友という形で石田三成(小栗旬)が出てくる。ある意味では石田三成を良く描いてくれ、私としてはうれしいのですが、三成を持ち上げれば当然家康をにくにくしい悪者にせざるをえない。私は家康ファンの多い静岡に住んでいるものですから、飲み屋さんで飲んでいて、酔っぱらいにからまれました。「今年の家康はなんですか」って。松方弘樹さんでしたが、頭にこぶをつけたりして、狸親父みたいに描かれたもので、家康ファンからは非難されましたけどね。
―史実とドラマの兼ね合いは難しそうですね。時代考証をされる時に、他にはどのようなことに気を配られているのでしょうか。
今の常識が当時の常識とは必ずしも一致しないというところですね。『天地人』で、「越後は米どころじゃ、酒どころじゃ」という台詞がありました。新潟が米どころになったのは近代だし、酒どころになったのはここ30年ほどのこと。それは指摘しました。
あと多いのは、脚本家が現代っ子のなので、今の言葉で台詞が出てくること。「わしゃ絶対、家族を守る!」「平和を守る」などです。「絶対」も「家族」も「平和」も、そんな言葉は当時ありません。そういう時は言い方を変えてもらいます。ただ、「江~姫たちの戦国~」(2011年)で、江がまだ小さい頃、信長から安土城に招かれて「やったー!」と叫ぶシーンがありました。当時「やったー!」という言葉はないけれども、かわいらしくていいんじゃないのということで大目に見ました。けっこうクレームはきましたが。
すべてを守って、重々しくやってしまったら、年配の人は喜ぶでしょうが、若い人がついていけないと思いますね。NHKサイドも若い視聴者層にも大河ドラマを見てもらいたいし。少しは大目に見ています。歴女など、歴史の裾野を広げるためにもね。
研究成果の発表の場でもある大河ドラマ
―大河ドラマの時代考証をされていて、先生にとって良かったと思うようなことはありますか?
自分のいろんな研究成果をある程度、大河ドラマという媒体を通してけっこう世間に伝えられます。「江」でもそうですが、これまでは、おね(北の政所)が正室で、それ以下は十把一絡げの側室だと。そうではなくて、淀は他の側室とは別格の二人目の正室だというとらえ方で放送してもらっています。これは私の最近の研究成果ですから、世間に広まるのはある意味うれしいですね。
他にも、以前は山内一豊の山内を「やまのうち」と読んでいたのを「やまうち」にしたのは私です。15、6年前、静岡の掛川で、掛川城の天守が木造で復元された時に委員をやっていて、竣工式に出席しました。ほんとにたまたまなんですが、隣に座ったご老人が、「やまうちです。よろしく」と自己紹介されました。山内一豊から18代目の当主の山内豊秋さんでした。私は当然「やまのうち」だと思っていたから「えっ、〝やまのうち〟じゃないんですか?」といきなり聞いてしまって。そうしたら「うちは〝やまうち〟なんです」と。
それから調べました。ちょうどその頃、山内一豊の資料を集めていて、その中の山内家文書のコピーに、ひらがな書きの女の人が出した手紙があって、そこに〝やまうちつしまどの〟と書いてありました。御当主も〝やまうち〟だと断言する。文書も〝やまうち〟だと。これは間違いないと。
それまで私も本では〝やまのうち〟とルビをふっていましたから、御当主との偶然の出会いがなければ、『功名が辻』でも〝やまのうち〟のままだったと思います。
歴史は鏡である
―最後の質問になります、小和田先生にとって、ずばり、歴史とは何ですか?
歴史は鏡であるとよく言っています。過去を写し、未来を照らす。歴史をただ過去のものとして所謂回顧趣味で終わらしてしまえば、本当の歴史ではない。むしろ歴史を学ぶことによって、自分の生き方の指針にする。そういう姿勢を多くの人も持ってもらいたいなと思っています。(了)
小和田哲男(おわだ てつお)
日本の文学博士、歴史学者。特に日本の戦国時代に関する研究で知られる。静岡大学名誉教授。 執筆、講演活動のほかに、NHK『その時歴史が動いた』や教育テレビ『NHK高校講座 日本史』などで解説を務める。戦国史と現在のビジネスマンの生き方を比較するような著書や公演も多く行っている。
NHK大河ドラマの時代考証も行っており、1996年放映の『秀吉』、2006年放映の『功名が辻』、2009年放映の『天地人』、2011年放映の『江〜姫たちの戦国〜』の時代考証を監修している。