まともな人間であれば自分の真価を認めてくれるような知遇を得れば、その人のために命も惜しまないという気になるものです。 |
「史記・刺客伝」によれば、戦国時代に晋の予譲という人がいました。子譲がかつて仕えていた恩人である知伯の仇を討つときにいった言葉は、「士は己を知る者の為に死し、女は己を説ぶ者のために容つくる、今、智伯は我を知る」でした。
その意味は「立派な男子であれば、自分の真価をよく知ってくれて、認めてくれた人のためなら死んでもよいと思うものだ。女性は、自分がそばにいると喜んでくれるような人がいれば、その人のためにお化粧をするものだ」です。
志士が、自分の命を捨てて働いてもよいと考えるとき、「死は鴻毛よりも軽し」と表現します。自分の命がおおとりのとても軽い羽毛よりも軽いということです。こちらの方は司馬遷の有名な文章の「入固より一死あり、或いは泰山よりも重く、或いは、鴻毛よりも軽きは、用の趨く所の異なればなり」、つまり「人間の命は、場合によっては重大な意味があるし、ことのおもむくところによれば、とても、軽いことがあるl と述懐した言葉から出たのです。
「命を惜しまない」というのは、現代風になおせば、「一命を落としてまで・・・」というような取り方よりも「一個人の利益や損得を超えて‥・」という程度に表現の内容をやわらげて受け取ってもよいでしょう。
特に、企業内の人間関係を中心に考えた場合、自分の仕事や役割において力が認められ、生かされているかどうかということが、本人にとっては重人な問題であるといえます。
つまり、直接の上司に自分の持ち味が、分かってもらえているかどうかは、下部の者にとって重大なことなのです。
どんな末端での目立たない地味な仕事であっても、組織の最高幹部の目がよく行き届いていて「○○君はよく裏方として頑張ってくれているなあ…」と話していたことが、本人の耳に届けば、その地位で最善の努力をして、組織のために働くのが、普通の人間のあり方であるといってよいでしょう。
また、能力開発の観点からいうと、集会研修やスクーリングなどの教育の場で人材を育てようとする企業の努力はもちろん人事ですが、最も効果的な教育方法は「その人のもっとも得意とする分野を上司の人が、よく理解していて本人に閥達に好きなようにやらせてみる」ということです。枠にはめた画一的な教育をほどこすのが人材育成ではなく、「死にものぐるいになって働くような気持ちにさせる環境作り」ということが、大きな命題といえます。