ちゅうようはとくのいたれるものなり・・・・・ |
「論語・擁也」に見える孔子の言葉で、原文は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」となっています。
つまり、「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、そのような人を見ることは少なくなりました」と嘆いているのです。
中庸は孔子の教えの究極的なポイントであるということから、いろいろの学説がありますが、あまり難しく考えず上記のようにシンプルに理解してよいと思います。
「論語・子路篇」では、「孔子いわく、中行を得て之れと輿にせざれば、狂ケンか。狂者は進んで取り、ケン者は為さざる所有り」としているのです。子路は元気ものでやや勇み足のところのある人物ですから、孔子はむしろかれを抑さえる方に回っていたのです。しかし、ここでは「中庸」の道を行けなかったら、「思慮不足でも操を守る片意地な者がいい」として励ましたのでした。
現在、私どもが理解している「中庸の理想は、むしろ老荘の教えに似ています。つまり「老子」の六十七章では「あえて天下の先たらず」といい、「荘子」は「進んであえて前にならず、退きてあえて後にならず」と「山木篇」で述べています。
とくに老子の教えは、「われに三宝あり。一にいわく慈、二にいわく倹、三にいわく天下の先たらず・・・」としていて、人間の生き方の真髄を表現しています。人に対して、いつくしみを持ち、何事もひかえめにして、先ばしらないことは、貴重な人生の指針となるものです。
さて、現代社会にこれらの教えをあてはめてみると、意外に孔子の教えが生きてくるようです。
つまり、バランスよくやろうと思ってもうまくいかないのなら、いっそのこと理想を高くもったらどうかということです。現代のサラリーマンや学生に崇高な理想を持てといってすすめるのは難しいのかもしれません。しかし、中道・中流で、ことなかれ主義で人生を過すことより、失敗してもなにか目標を持って進む方がよいとすすめているのです。
また、生き方がまずく、不器用な人間であっても、志をまげたり、節操のない生き方を選びたいとも述べています。このように「中庸」はことなかれ主義ではなく、また行動についてつねに内輪でよいというのではないことが分かります。しかし、やりすぎないためには自制する強い意志と、不正に対する毅然とした態度が必要です。