わしてどうせず・・・・・・ |
「論語・子路」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。後半は、「つまらぬ人間は、やたらに人の意見に賛成するが、真に共感しているのではなく表面だけを合わせているのであり、友好関係は生まれない」ほどの意味でしょう。
「付和雷同」(礼記・曲礼上)は「雷が鳴ると、それに応じて反射的に響く音のように、自分の定見もなく是非の判断もなく、賛成する」ということでほとんど同意義です。
「和」というのは、われわれ日本人が大切にしている美徳の一つです。「和気諸々」というのは、「気分のよい、ほんわかした雰囲気」のことであり、ことを荒立てずにうまく調和していくことでしょう。
「和議」は「なかなおりの相談」ですから、大へん幅ひろく使える語句といえます。しかし、だれとも友好関係を保ちながら自分の主義主張を曲げないことはなかなか難しいことだと思います。
老子の思想が、融通無碍で自由に流れに従うのに、孔子の方は筋を通して、自分の説を曲げないというやや道徳臭のあることがこの格言のなかにもよく表れています。人間関係をよくすることをすすめながら、自説を曲げてはいけないと戒めているのです。世のなかに「清濁併呑む」ような生き方を実行している人も少なくないのです。こちらの方は、広く、どのような人とでも交際し、受入れるということです。
「清濁併せる」は、いいかえれば、正しいものも邪なものも、また善人も悪人も区別しないことで孔子流では受け入れられない態度です。「史記・酷吏伝」に「清濁を制治す」というところからでたものですが、「清濁併呑む」の方はわが国で作られた成語であるとされております。
一般の会話で、「裃を脱いで話しましょう」「まあ、そう固ぐるしいことは言わずに……」「建て前論ですが……」などと、なんとか妥協を引き出そうとするのが、わが国社会の風土であり、パラダイムです。
このような社会的な基盤のなかで協調して暮らして行くためには、大筋で同意できさえすれば、「同ずる」こともやむを得ないといえましょう。
倫理、道徳の退廃、ビジネスモラルの低下など、有識者にとっては嘆かわしい世相の中で我々は暮らしています。「節を曲げない」ということはいつの世にも難しいことでしょうが、現代社会でもおなじことがいえます。