ろくじゅうにして、ろくじゅうかす・・・・・ |
「准南子・原遺訓」には、「蘧伯玉、年五十にして四十九年の非を知れり。六十にして、六十化す」とあります。衛の重臣、蘧伯玉は、五十歳になってみて、それまで生きてきた四十九年間の生活がいろいろ間違っていたということに気付いたのでした。しかし、彼は六十歳になっても、いろいろ自分で反省して、勉強し、進歩して変わっていったのです。
孔子の「五十にして天命を知る」とは、やや異なったニュアンスで人生を見ています。
別の諺で、「今是、昨非」というのがありますが、やはり、「昨日あったことを改めていって、今日の行動を正しい方向に修正する」ということで、過去を未来の糧とするという考え方です。「日々それ新なり」ということとほぼ同じでしょう。
諦観、あきらめ、悟道などは、全くちがった生き方といえます。
ある友人から、「閑不徹、大忙生」という色紙を頂きました。「年を取っても閑を楽しみ、悠々自適として遊びに徹することができず、逆に追いまくられているように忙しく、人生を送っています」という意味でしょう。
他に、年配者を褒めるときに「お元気ですね」とか「矍鑠」としておられますね」などといわれることもあります。「矍」というのは小鳥がきょろきろしている姿をあらわし、「鑠」の方は金属が溶けて、キラキラ光っていることです。つまり小鳥のように元気で輝いているということです。
六十にもなれば、「晴耕雨読」つまり晴れた日は、庭先の家庭菜園にて耕作に汗を流し、雨が降れば、好きな本を読んで悠々として老後の生活を楽しむというのが、ごく普通の生き方かもしれません。これが、定年後の生涯計画の定型パターンとすれば、「閑不轍、大忙生」や「矍鑠」というのは、老人らしからぬ現象としてみられるのでしょう。
しかし、日本は、超高年層の時代を迎え、通勤電車のなかにも年輩の人を多くみかけます。満員電車をものともせず、階段も駆け上がる元気な姿を見せています。アンケートの結果として、65才以降も働きたい人は70%以上という高率を示しているのです。
西欧社会における年金生活は、人生をエンジョイするためのものとされており、世界旅行や、別荘生活を楽しんだり、スポーツやレジャーに時間を費しています。
わが国の老人は、遊ぶのは得意ではなく、現役のまま生涯を終えたいというのが、本音の人は少なくありません。働ける間は、「大忙生」でよいと考えています。