いるをはかりていずるをなす・・・・・ |
「礼記・王制」には「三十年の通を以て、国用を制し、入るを量りて、以て出ずるを為す」とあります。「三十年間の平均で、国の予算を組み立てるようにし、まず収入の方をよく押えてから支出の方を計画する」と記されているのです。
財政均衡は、古今の鉄則ですが、現実の世界ではなかなか守られていないようです。
中国古代の国家財政を調べてみると、悪政の典型は、徴税を強化することで収入を賄い、人民の血税をしぼる、殷の紂王のようないわゆる「苛斂誅求」です。金を使わない政府ということになれば、尭帝の施政が善政の理想となります。「十八史略・第一・帝尭」項では、「撃壌の歌」が次のように記されています。「老人あり、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌うていわく『……帝力何ぞ我にあらんや』
これは、一人の老人が食物を口に入れ、腹を叩き、大地を打ち鳴らしながら歌いました。『皇帝のおかげなど何も蒙っていませんよ』」というのです。
つまり、人民が皇帝の存在を知らなくてよいほど平和で、財政も豊かで税金のことを忘れてしまうほどだったと謳歌しているのです。
わが国の近世の歴史上、封建体制における藩財政問題は深刻な問題でした。徳川幕府は、収入を増すために、つねに厳しく上納金を割り当てたため、藩の財政は非常に厳しいものになりました。
藩政立て直しに際しては、君主、学者、賢人が大いに活躍し、中でも上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹などが有名です。
特に上杉鷹山は、現代のリストラの理論的なモデルとして最近盛んに研究され、彼の政策が現代企業経営に生かされています。
鷹山は上杉家の養子であり、しかも出身藩が高鍋藩という弱小藩であったために、財政立て直しだけでなく、人間関係でも苦しい戦いを強いられました。
みずからが倹約を旨とし、生活を切りつめ、食事はつねに一汁一菜で、衣類も絹物は着用せず、一生木綿服で通したといわれます。
彼のとった財政政策のなかで、得意なものは、藩会計の公開であったといわれています。
寛政2年(1790年)、鷹山は藩の会計、つまり円帳という財政報告を一般に公開したのでした。つまり、藩全体の総収支勘定書を明らかにすることで、「入るを量って出るを制する」政策を身をもって体現したといえます。
米沢藩の財政立て直しは、失敗の連続であり、曲折もありました。彼の成功を支えたのは中国の古典の一つである「大学」です。そこに記された「徳は本なり、財は末なり」という言葉で、鷹山の真情となり、全藩内に徹底していき、財政立て直しに成功したのだといわれています。