頭の切れることや知性の鋭いことを鼻にかけるようなことはやめ、争いごとのもととなるような問題点をときほぐして、平々凡々な人として他人とうちとけることいいます。 |
出典の本文は、「その鋭を挫き、その紛を解き、その光を和し、その塵に同ず」というものです。
これを平易な現代風な言葉に訳してみますと、「もの知りや、できものであることを鼻にかけないで、人にいざこざを起こさないようにものごとの問題を解決するようにつとめ、また自分が人格者で徳があるなどと聖人ぶることをやめ、庶民感覚のなかに生きる」ということになりましょうか。
しかし、平素日常生活でこの格言を耳にするのは、宴席などで、「やあ、今日は無礼講ですから、かみしもをぬいで『和光同塵』といきましょうや」というように、「気楽につきあう」という意味に使われています。
日本のことわざのなかには「能ある鹿は爪かくす」などと、賢い人ほど、自分の能力を人の前で誇示しないものだと教えるものも見られます。
あまりに鋭さが目立つような人は、人間関係を良好にできないものです。
現代社会は、知性が尊ばれ、また知識のある人が重用される世の中といえます。情報化社会とか、知識社会ともいわれ、とかく知識偏重になりがちです。 また、最近では問題が入り組んでコジれているとき、これを丹念に解きほぐすのではなく、断ち切ってしまうようなやり方が一般的です。世の中が万事スピードを尊重し、あまり丁寧な仕事はやっておられないという事情にあることも事実です。根本問題を丹念に解きほぐすということも見のがせないことです。これをジツクリと解きほぐすのが「紛を解く」ということになるのでしょう。
聖人君子振りも、もちろんきらわれます。道徳じみたお説教の好きな上司は、部下から煙たがられ、うまい人間関係ができにくいものです。
才能があり、能力も人並み以上にすぐれた人は、「才人、才に溺れる」ということになりがちです。その一番の理由は「他人が愚かに見える」ということがあると思います。つまり、同僚や他人のやっていることが、もの足りなく感じられ、歯痒い思いをするたびに、つい人の仕事に口をだしたり、自分の意見を満々と述べたりしがちなのです。このような自分の知識をひけらかすような態度は、どうしても嫌われ、敬遠されます。「その光を和す」ということは当然の人づき合いの心得といえます。