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先日、東京の大学の准教授の調査に立ち会うことになり、フィンランドや日本の大学のキャリアサポートや就職活動事情を知る機会に恵まれた。話を聞くと、日本では今、多くの学生たちが、収入の安定している公務員や高収入が約束されている職を希望しているという。不況の影響もあって、若者たちは不安なのだろう。将来のことを考えると、必死になって、自分に可能な限りの収入を得なければ、この先家族ができても養っていけないかもしれない。それどころか自分自身ろくに食べていけず、生きていくことすら厳しい状況に追い込まれるかもしれない。そうなると、「収入は多ければ多いほうが良い」という考えにたどり着くのはごく自然だとも言える。何の保障のない未来を前に、膨れ上がった不安は、大人や若者たちから幼い子どもたちへも伝染している。
高収入のためだけに四苦八苦して、余裕を無くし、それ以外の目的が見えなくなってしまうと、無駄な努力をすべて省いて、できるだけ楽をして頂点まで行きたいと思うようになる。成功への最短距離を測り、近道を探す。「勝ち組」と呼ばれる人たちの本が出れば、あっという間にベストセラーになる。同じことをすれば、きっと自分も成功すると信じて疑わない人たちが、そういった本にすがりつく。いかに最小限の努力で効率良く、最大限の結果を出すか。それがいつしか、人生最大のテーマとなってしまう。
「権力と財力を得ることが、人生を豊かにし、そうなれば自分は幸せになれる」今の現状を見ていると、人々はそう思い込んでいるような気がしてならない。勝者と負け犬の判断にもこの「権力」と「財力」が物差しとして使われている今日だ。だが、本来その人が持つ人間性とは無関係に等しいこれらの物差しで、本当に人の価値を計ることができるのだろうか。人の人生の価値とは、お金に換えたり、数字や肩書きで簡潔に表せてしまうものなのだろうか。組織の中で人の上に立ち、顎で人を使えるような身分になっても、有り余るほどの財産ができても、そこで人生に満足することはできないのだろう。なぜならそれは多くの場合、最終目標ではないからだ。きっと、権力や財力をつけて、本当は他に手に入れたいものがあったのではないだろうか。きっと初めは、権力や財力は、そのための手段に過ぎなかったはず。いつの間にか目的化していった手段。それに気づかなければ、その先へ進むことはできず、本当に求めるものには触れることさえできない。
そんな時、フィンランドで出会った子どもたちの言葉が頭に浮かぶ。「どんな人生をおくりたい?」と尋ねる私に、「家があって、家族がいて、健康で、生活に困らないだけのお金がある人生。でも、大金持ちになる必要はないよ。お金はありすぎてもダメなんだ」と答える小学生や高校生。フィンランドの大学でも、医学部と並んで最も人気のある学部は、教師の収入が低いにも関わらず教育学だ。社会保障の充実さが生む安心感の中で、彼らは自分にとって最も大切なものを見失うことなく、人生を送ることができている。
人の幸せとは、他人のそれとの比較で形作られるようなものではない。他人から羨ましがられようが、馬鹿にされようが、「自分の幸せ」は「自分の幸せ」なのだ。お金があっても、なくても。
自分の力で未来を確保しなければならない今、荒波は日本では特につよいように思う。その怒涛の中で、何よりも手放してはならないものは、自分の幸せを決める価値観だったはずではないだろうか。
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