ビジネス雑誌を読んでいると、経営者がよく語っていることに、262の原則がある。つまり、どんな集団でも、優秀層が2割、普通くらいのが6割、残り2割はパッとしないというのだ。下のほうを追い出してもどういうわけか、いつのまにか、同じような構成比でできる奴、できない奴、そして普通の連中が生じてくるというのだ。
いわゆるコンピテンシーは、このような「できる奴」をインタビューし、そこでわかった彼らの秘訣をみんなでマネたら2割の優秀層がぐっと厚くなり、首尾よく行けばイチロー選手のようなハイパフォーマーが次々と生まれてきて、組織上の不幸な問題は一掃されてしまう(例えば、太田隆次氏のコンピテンシー論)というものだ。経験的に疑問の多い説だが、コンピテンシーが人材育成のよき指標となり、平均層が優秀層に近づくきっかけがつかめることは今仮に否定しないとしても、もっと興味深いことはパッとしない劣等層、つまりローパフォーマーの自然発生のほうである。こういう連中を救えるのか。
最近でこそ、日本も変化してきたが、一般にいったん入社したら、よほどのことがない限り、解雇せず長期雇用するという終身雇用ないしそれに近い慣行は大企業を中心になくなってはいない。またそういうことには無縁そうな中堅クラスの企業でも、できない社員がいたら、即刻にじり寄って解雇するということはないものだ。そこまでえぐいことを何とも思わない会社はそうそう多くはないし、日本の人事評価制度ではできない社員を確実に発見するようには設計できていない。どうしてもダメ社員を放置し、抱え込む構造がある。
往々にして、仕事そのものはしないのに、上役のよき癒し役になっている社員は、上役と「共依存」の関係にもあるので、糾弾されにくい。低い評価をもらって槍玉を受けるのは、批判的な意見を口にするなど、むしろ上役から煙たがられる人である。「あいつはあれこれ言うが行動が伴わない」などそれなりの理由をつけて批判的人物は排除されていくことが少なくない。癒し系の部下はその感受性や気配り、人の気持ちを先読みできるなどそれなりの理屈付けで並か並以上に評価されている。こんな人が付和雷同の太鼓持ちとして同僚や下位者からは薮睨みされていることは言うまでもない。
さらに、実績が多くても少なくても日本では処遇差はそう大きくない。リクルートのワークス研究所の調査では、仮に売り上げに2倍の差があるとしてその処遇差はせいぜい15%程度だという。売り上げというわかりやすい指標で比較すれば、売れない社員を抱えることがいかに人件費で割高か、よくわかるだろう。ただ、このように処遇差をつけないことも、実は現場の人間関係にはいろいろ影の部分もあることを慮った日本的な知恵からくる慧眼ゆえのことだったのかもしれないと思うこともある。
いずれにせよ、組織に自然発生してくる、ローパフォーマー(低業績者)がなにゆえに登場してくるのか、それを阻止したり低減することは果たして可能なのかを考察してみる必要がある。
まず組織に262の比率で優秀層、平均層、劣等層が出てくるのはなぜだろうか。思うに、これは、自己イメージがキーになっている。自分はできる人間だし、組織の中で中心的でなくではならないと考える人は何事にも積極的になるし、次第に前傾姿勢を取るようになる。この姿勢をみて上位者は有為の人材とみなすようになる。これに対して、いつも先を越されて遅れがちになると、だんだん負け癖がつき、自分でもダメ人間だと自覚するようになる。何か事を起こすにも慎重になるし、周囲の顔色をうかがうことが先に立ってしまう。このような相対的位置関係のプロセスで発生してくる262なので、どんな優秀な人材を集めて組織化しても、どういうわけか、中身は262になってしまうのだ。しかし、一見ダメとレッテルを貼られている社員が意外に目立たない働きをしていたり、アイデアを出すなど見えにくい部分で貢献していたり、やり手と称する押し出しの強い連中のいい癒し役になっていることは気づかないことが多い。自分では大してアイデアを出さなくても、何となく取りまとめてトップに抜け目なく報告すると、その人があれこれとやっていると見えることもあるだろう。トップへの接近容易性が仕事の出来不出来、、活躍度合の代理指標となることが少なくない。
ただ、262の比率は何も黄金律ではない。私の知る限り、異なる比率になっていくこともある。昔、コンサルティングで関わった訪問販売の会社では、127だった。この会社ではほんの一部の人が売り上げを上げており、7割方の人はほとんど実績を上げられないという状態だった。実績の上がらない社員は日々上司に罵倒され、あらん限りの罵詈雑言を浴びせられて、失意のうちに会社を去って行った。会社は第2グループの人材をどう強化するかを議論し、ほとんど活躍しないで終わる人材を採用しないですむ方法を模索していた。
また別のクライアントである制作会社では、いつも1割に相当する2名か3名のダメ社員、問題社員がいて、何となくその人さえいなければ会社は好転するという合意ができ、年に2回程度定期的に、そういう人が何となく追い詰められていた。フォーカスされた社員が去った後に、その瞬間まで並程度の社員として見られていた社員が急にフォーカスされていくのを見ていると、そこに組織自身の意思のようなものを感じた。追い詰め追い出される人も、中間層の社員に限らず、役員をしている上層部にまで及ぶことさえあった。
次々に排除されるプロセスを見ていて、私は、今村仁司の「第三項排除」論を思い出した。今村によれば、応酬合戦となる暴力を廃止し、コミュニケーションを成立させるためには、対立する二項以外に第三項を設けて、それをスケープゴートとして排除するしかないのだ。癒す人と癒しを求める人との共依存、そしてその他は第三項。スケープゴートを作って叩きのめすという現象は、日本古来からある人柱がそうだし、ヨーロッパ中世では魔女狩りがあった。
また比率だけではなく、残る、残らないといえば、勤続年数の長い年功ある社員が上層部をデーンと構え、その下に来る社員は結局、周期的に辞めていくという現象もいくつかの会社では見られた。何度も離職のサイクルを繰り返し、老社員ばかりと感じられた頃、やがてその会社も突然についえたことがあった。その時、年功意識というのは、大企業のみならず中堅中小企業にも色濃くあるものだということを痛感したものだ。後輩社員が先輩社員を超えることは絶対になく、あってはならないことだった。会社の実績が上がっても、一部の年功社員だけが昇給し、中堅層はちょっぴり、そのご相伴に預かるのみ。これは、実績評価を一部の年功社員が掌握した結果、生じた組織現象だろう。
では、組織にはびこるローパフォーマーはどう探索してどう削減していくか、これが次なる問題となる。まずこれには、従来ある人事評価制度はほとんど功を奏さないことを強調したい。一般に制度としての人事評価を取り上げても、評価基準を議論し、評価シートを作ることにその労力の大半が注ぎ込まれるだけだ。しかし、現場の管理者にとってはあらかじめ部下の評価などほぼ決まっており、評価基準などどのように提示しても大して機能しないものだ。
目標管理がいいという話もあるが、これはそもそも現場の上司と部下の話し合いにすべてを委ねるという責任逃れの丸投げ施策に過ぎない。どこにでもありそうなマニュアルと升目だけのシートが配布され、現場で何とかしろ、と言われる。実際には、形骸化するのが大半だが、現場での話し合いが時に意欲を阻喪させ、そこに働く人には屈辱的な場面に過ぎないことを見失ったアプローチである。ただ、このMBOは米国の教科書ではモチベーション向上のための方法として通常は紹介されている。日本ではほとんどの場合、そうなってはいない。
考課者研修をやれば評価者のスキルが向上すると主張する論もある。それはそれで意義あることで実施していかないといけない。しかし、この手の広報活動はそもそも部下が評価に疑問を呈してきた際に反論できる準備をするためにやっているところがあり、これによって被評価者の序列や評価結果が一新するというものではない。低く評価された人の不満や苦情を収めることがその内容の中心となる。
なので、評価制度上のイシューとしてローパフォーマー問題にアプローチしてもなかなか解決の糸口はつかめない。また実際の評価はいろいろな要因で歪められ、それがそのまま働きぶり、実際の貢献度を反映しているというわけではない。このことも連載の中でたびたび指摘してきたところだ。
そこで、むしろ、ローパフォーマーとはどんな人なのかを具体的にイメージし、そのような人物をどう炙り出すかを検討することが必要となる。例えば、会社の中でうるさ型キーマンがいるものだ。こういう人は、スピッツ犬のように会議では激しく吠えるし、隙のある人にはここぞばかり噛み付く。実際にその人がやったことというのはこれといってないことがほとんどだ。ある会社の例だが、そんなスピッツが執行役員になっていたり、何とか室長という肩書きで参謀役になっていたりする。詭弁も多いが、弁が立つのでトップの心をうまく掴んでいる。こんな人物をなかなかトップは排除できない。泣いて馬謖(ばしょく)を斬るという風にいかないものなのだ。あるいは、癒し系に徹する部下。そんな部下も組織の潤滑油として必要かもしれない。しかし、あまりにも高い潤滑油を組織が大量に抱えるべきか、疑問も湧いてくる。ある程度、間引きが必要だろう。
実績基準ではなく、何が必要で何が不要なのか、沈みかけたタイタニック号にいる乗客と乗組員というたとえで自社の組織構成を見つめてみることが必要かもしれない。そのためには、効果的に多面評価することやそれを補う良識ある情報収集が必要となると思われる。
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