最近、いくつかのビジネス雑誌に社内での業績評価を高める方法が特集として組まれた。それらを見ると、何らかのスキルやコンピテンシーを持っていると評価されるということが書かれている。つまり、単に業績を上げるだけではなく、業績に上乗せして上層部にアピールするプラスの能力がないといけないということが強調されているのだ。しかし、こういう特集を見ると、会社組織の実相からかなり懸け離れた空理空論のように思えてならない。
というのも、個人の貢献度と企業が行なう人事評価とは基本的にリンクしているという前提を信じきっており、そこがそもそも現実離れしているからだ。確かに個人の貢献度はそれなりに把握されている。しかし、いろいろな要因で評価は恣意的に操作されているし、むしろ評価項目にない要因でかなり決定付けられているという現実もあるからだ。
例えば、従順性という評価項目は数多ある会社の人事評価制度でまず見かけることはない。しかし、上司の指示命令がいかなるものであっても、素直にそれを受け止め、矛盾した指示命令であっても文句を言わずに何とか結果オーライに現場を収めるということは、かなりクリティカルである。つまり、上司の無能さや横暴さをうまくカバーする一方で、どこまでも上司に従い、忠実であろうとする人は評価されるが、上司の指示命令の矛盾を突いたり、上司の無能さゆえに業務が回らないと不平を言う人はいかに優秀な人でも並以上には評価されていない。このように評価項目にない下から見れば手前勝手な基準で人事評価の多くが決定されていることが少なくない。
私の知る限りでも、人事担当者とお付き合いさせて頂いて、いくつかのパターンがある。全社的な視野を持ち、経営トップの不十分さ、はっきり言えば無能さに批判的で改革を唱える革新批判型、会社上層部に忠実で口が堅く、必要最低限のことしか周囲に情報を伝えない忠実慎重型、指示されたこと以外に進んで業務を行なわず、やるべき仕事も部下に丸振りしその監督だけをしていく丸振り監督型などがいる。
マネジメント雑誌的には、このうち革新批判型がそれなりに評価されると考えるかもしれない。しかし、私の経験では、このような革新批判型は、私のようなコンサルタントを業務時間外にも会いましょう、と言い出し、話をすれば会社や上司への愚痴ばかり、とりわけ会社批判の舌鋒はすこぶる鋭い。政治に話題を移せば政府の経済運営や外交政策まで斬って捨てていく。新聞も一切読まずテレビも持たない私はとてもその話題に付いていけないほどだ。なるほどと思うことも多いのだが、こういう人はやがて社会人MBAなどに通い出し、そのうちどこかに転職していってしまう。あるいは人事以外の部署に転出し、会社全体からすると、どうでもいい閑職で再出発する。要するに、会社の評価はこういう人には決して高くないのだ。またコンサルタントをやっているこちらからすると、仕事がもらえなくなってしまう危険性が小さくない、実は厄介な人なのだ。ただ、こんな人がマネジメント雑誌の消費者でもあるので、こういう種族にこびる記事が魑魅魍魎のごとく跋扈するに過ぎない。
また意外なことのように思うかもしれないが、活力のある会社ほど処遇差が小さく、いかなる評価を受けてもほぼ一律に高めの報酬が払われている。つまり、こういう会社では、上司の評価が多少悪くても世間並み以上の報酬をしっかりともらえる。これに対して、活力もなく離職率も高くて組織内がドタバタになっているところほど処遇差が大きく、その差をよりいっそう大きくするための評価制度改定が絶えず論議されている。こういうところは、コンサルタントにはおいしい会社なのだが、評価制度の「改革」も処遇差の極大化も実は何の解決にもならない。それどころか、ますます組織を不安定にし、弱体化させ、劣化させていくだけだ。なので、コンサルタントを雇って人事改革をする会社は、組織がよくなるというよりも、悪さ加減をいっそうひどくし、ある意味でガス抜きとしか思えない儀礼として評価制度改革を定期的に俎上(そじょう)に乗せていく。それによって評価への不満を一時的に解消しようとするのだ。しかし、実際の処遇差は、意外な基準で決まっていくものなので、真の貢献度と処遇差が乖離し、モチベーションが高まるどころか、処遇差拡大によってむしろ下がってしまうことになる。正しく評価されていないという実感は、当事者だけではなくその周囲にもやる気を失わせるからだ。
何ともやりきれない話になってきたが、このような話をすると、実はうちもそうなんです、と言い出す人が少なくない。私は、何もそういう人にカタルシスで癒してあげようと親切をしているわけではない。実態を踏まえて対処法を考えないと会社がよくならないと考えているに過ぎない。
ところで、疑問をもたれる人がいるかもしれない。処遇差が小さいのに活力が生まれてくる会社には何か秘密があるのかということだ。これには2つのパターンがある。1つは、伝統的大企業によくある年功賃金だ。若年時にがんばってもらい、その成果を長年の間に見つめ、中高年になってからその報酬を退職金と共に後払いする方式だ。これは近年疑問視されているが、長い間、気が抜けない仕組みなので、実を言うと、それなりに効果がある。しかし、流動化すると、機能しなくなるし、企業も後払いを踏み倒したりケチるようになってきた。少なくとも、年功賃金の前半はそのままにして、貢献度と乖離した高い部分だけを見つめて年功賃金が組織をおかしくしているという「問題意識」が高まってきている。
もう1つは、ローパフォーマー層をアウトプレースしていくダルマ落とし型だ。いくつか典型的な会社は日系でもあるが、例えば、リクルートがそうだ。あるいは外資系ではエンロン事件で破綻したアンダーセンがそうだった。また、とある大手のコンサルタント会社の部長は、並以下の働きしかしないコンサルタントを発見し、転職を促す話し合いが最も重要な任務と語っていた。いずれにしても、このような会社では、常に追い込まれる人がモニタリングされ、ダメ出しがなされる。何とか残ればそれなりに処遇されるので、生き残りに必死になる。生き残るには実績も出さないといけないが、しっかりとチームワークするなど評価は総合的になってくる。なので、気が抜けないのだ。適当にごまかそうとしてもなかなかごまかしきれない。また直属上司の一存のみで追い込み対象が選定されないこともその特徴となっている。常に同僚が追い込まれて不本意な自主退職させられていく会社がいいとは私も思わないが、わずかばかり賞与が多い少ないということよりもこのような追い込み型組織に独特のインセンティブがあり、活力があることも否定できない事実だ。
人事評価を小学校、中学校の通信簿のように思い、上司は担任の先生のように公明正大だし、またそうあるべきだと思いこんでいると、会社組織への見方を誤ってしまうように思えてならない。
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