第8回:大学生活における英語について
こんにちは。清水洋です。シカゴもようやく花も咲き、新緑も出てきました。テニスも屋外のコートでできるようになりました。今月は、英語について書きたいと思います。
英語は得意ではありません。アメリカとオランダに住んでいたことはあるのですが、僕の英語にはまったく役に立っていません。アメリカに住んでいたのは1歳ぐらいの時で、二足歩行が精一杯でした。オランダに住んでいた時は、日本人学校に通っていたことと、オランダでは英語よりもオランダ語が使われていたために、英語の能力の向上には何も寄与しませんでした。
日本では、中学、高校と文部省の定めた英語教育を受けてきました。英語は決して得意科目ではありませんでした(何か得意科目があったかすら思い出せないのですが)。大学院では英語の文献は読んでいたものの、英語を書いたり、聞いたり、話したりする機会はありませんでした。英語を話す機会といえば、マクドナルドで、「ビックマック!」と注文する時ぐらいでした。
こんな僕ですから、留学してから、英語は大きな問題でした。最初の学期は特に苦労しました。授業ではどんなことが議論されているのかがよく分からなかったり、自分の言いたいことが上手く伝えられなかったり、みんなが笑っているのに自分だけその笑いについていけなかったりの連続でした。
来月でシカゴにきてちょうど2年が経ちます。多少は慣れてきましたが、まだまだ英語で苦労することは多いです。それに、慣れたといっても、もしかしたら、英語に慣れたのではなくて、良く分からない授業に出るのに慣れただけかもしれません。
どんな時に困っているのでしょうか。まず、授業中です。大学院の授業の多くは、ディスカッションです。そのため、いきなり話を振られた時や質問された時に困ることが多いです。リーディングとライティングは、自由に時間をかけられますが、クラスでの議論は待ってはくれません。どんな質問が来るのかも分かりませんし、質問がきちんと整理されているとも限りません。しかも、スグに答えなくてはならないのです。特に、ネイティブ・スピーカーだけのクラスはなかなかつらいです。留学生が多い授業はやはり楽です。議論のテンポが若干遅くなります。
また、ティーチング・アシスタント(TA)の時も大変です。TAの基本的な仕事は、採点とティーチングです。まず、採点で大変なのは、テストの採点です。ワープロで書かれたレポートなどはまだ楽なのです。テストの採点がなぜ大変かというと、ハンドライティングだからなのです。答案のアイディアがユニークなのは構わないのですが、ハンドライディングまでが独創的なものが結構あるのです。
また、採点以上に大変なのがティーチングです。TAはディスカッション・セッションで、授業の内容を補足し、学部生たちの議論をリードしていかなければなりません。学部の授業にはあまり留学生はいません。ほとんどネイティブ・スピーカーです。そんな彼らに英語で教えるのはかなり大変です。
授業だけではありません。ビールを飲みに行く時も問題です。飲みに行くところは、たいていガヤガヤしています。そのため、何を言っているのか良く聞こえません。しかも、酔っ払っているため、早口になります。話題も次から次へと変わります。
また、冗談を英語で上手く言えないのも困りました。困ったというよりも、フラストレーションのもとでした。冗談を言えるかどうかは、人とのコミュニケーションだけでなく、心のバランスを保つのにも、結構重要な気がしています。(英語で冗談を言うようになってから、だんだん、冗談が上手く言えないのは英語のせいではなくて、他に原因があるのではないかという気がしてきました。笑ってくれる人の数は、日本語でも英語でもあまり変わらないのです。)
このように苦労してばかりいる英語ですが、良い点もいくつかあります。まず、ここは英語漬けになるには良い環境です。留学を決めたひとつの理由に、英語で論文がきちんと書けるようになりたい、英語で議論ができるようにしたいという思いがありました。今の環境は英語のトレーニングにとっては、恵まれています。
英語によって友達の輪も広がりました。いろいろな国の、いろんなことを勉強している友達がいること、それ自体とても楽しいです。最近、なんとなくそう思ったりしています。一緒に食事をしたり、テニスをしたり、映画を観たり、グチを言ったり、彼女にふられたり、悩んだり、笑ったりなどを言葉の壁を超えていろいろな国の人とできるのことはそれだけで楽しいのです。
最後に、一生のうち、ある期間、母国語ではない言語で暮らすのも悪くないという気が最近しています。それは別に英語である必要はないです。言語心理学者のサピアとウォーフは、「使う言語の種類の違いによって、考え方やモノの見え方が違ってくる」ということを明らかにしました。つまり、使う言葉が異なれば、違うモノが見えてくるというわけです。母国語でない言葉を使うことによって、モノが新しい見え方で見え始めたり、日本語の背後にあるモノの考え方が改めて分かったりするかもしれません。アメリカの英語を使っていると、ビックマックがこれまで以上にとびっきり美味しく見えてくるかもしれません。
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