へいはきどうなり・・・・・ |
出典は「晋書・宣帝記」です。
魏国の景初元年という年に、遼東の太守である公孫淵が、魏王朝に反旗を翻しました。魏の明帝は、名将司馬懿に命じて討伐の軍を出しました。
司馬懿は、数万の騎馬を従えて出陣し、数カ月を費やして遼東に到着しました。折あしく雨期となり、戦線は膠着状態となりました。帝下は焦って行動しようとしましたが司馬懿はしごくのんびりとして動こうとしません。
たまりかねて、幕僚の一人が「先年、孟達を攻めたときは、全軍昼夜兼行で強行戦をし、『まるで神わざのようだ』といわれた位です。しかし、今度は、何カ月もかけてやっと遼東に到着し、のんびりと構えています。どうしてですか。」と尋ねました。すると司馬懿は「孫子」の教えである「兵は詭道なり」をあげて、状況に応じて作戦を変え、おたがい騙し合いの挙にでることの重要性を説いたといいます。ちなみにこの言葉は「孫子」の始計篇に出ています。
三国志に出てくる有名な戦略家である諸葛孔明の「空城の計」を紹介しましょう。
司馬懿に攻められて、僅かな兵を率いて撤退した孔明は、作戦の行き違いもあって、まさに「風前の灯」のような状態になってしまいました。
しかし、司馬懿が遠方から城の様子を見ると、城門は大きく開かれ、道には障害物一つなく、さらに城壁の上では孔明が、香を焚いて琴を弾いている姿が見えました。城門近くまで進んできた魏の騎馬隊は、この異様な光景に驚き、司令部の指示を仰いだのでした。司馬懿は、罠がしかけてあると読み、敢えて攻撃をしなかったので、孔明は夜半に難なく撤退してしまったというのです。このケースでは、考えすぎの司馬懿が孔明の「詭道」によって完全に欺かれたわけです。
これは「陽動作戟」ともいわれ、現代の政治の世界では日常みられる戦術の一つかもしれません。ポーカー・フェイスで敵を欺く手段をいろいろ弄することは、かけひきの行われる実力社会の常道といえましょう。
しかし、ビジネスマンの社会では「兵は詭道なり」の論法でいけるかどうかは、意見の分かれるところでしょう。
それは、ビジネスを行ううえでは、「信用」と長い交際を前提とする「友好関係」が重要とされるからです。一度だけの勝負で、競争相手を倒す必要があるような事業ではないかぎり、先方の目を欺くような方法は避けたほうが賢明でしょう。