上に立つ人は、部下がどのように感ずるかを考えて行動に注意しなければなりません。ほんのささいな行動でも部下はよく見ていて、それを見習うようにしますから、そのつもりで軽はずみな行動はつつしみたいものです。 |
「韓非子・内儲説・上」にある語句です。
昔、韓の昭候が、古いい袴を保管するようにお側の家来に命じたところ、「そのような古い袴は、だれかにやってはどうですか」と非難めいたことを家来にいわれました。昭王は「懸命な君主は、部下の前で顔をしかめたり、嘲笑したりする場合でも注意しなければならないものです。袴を下賜することは、もっと重大な意味を持つのですから、誰に与えるのかについて十分に注意しなければならないのです」と言ったとのことです。
おなじ故事から生れた成語としては「弊袴を愛惜す」というのがあります。要するに、多数の配下を持つ者は、自分の一挙手一投足に注意しなければならないという自制の言葉といえます。
「上これを行えば、下従う」などは、これと同義とみてよいでしょう。
なお原文では「故に、これを収蔵して、末だすうることあらざるなり」としており「慎重に時期を待っているが、まだチャンスがないと」続けています。
韓非子は、君主の守るべき具体的な教訓を沢山のこしています。「人主は偽わりて人を愛すべからず」は「外儲説」に見えるもので、呉章という人物が、韓の宣王に言った言葉です。
その意味は、「君主はいつわりでも、本当のところでも、人を愛する素振りを見せてはいけない」ということになります。つまり、そのような素振りを見せることによって、部下も、君主に同調してその人を褒めたり、推挙したり、登用したりするへつらいの行動にでるものだからです。
呉章は続けて「一日また憎むべからざればなり」といっています。つまり「一度、愛するような行動にでてしまった以上 その人物の欠山がでてきても、憎んだ措置を部下に見せることが出来なくなってしまうからです」と補足しているのです。
多くの部下を持つ人が、特定の人物評を行うことは弊害が多いのはもちろんです。つまり、「意中の人」はあくまで、胸のなかに秘めておいて、最終的な段階で、本心を明かして人事を発表するような心づかいが必要でしょう。
韓非子は、「主道」の中で次のようにも述べています。「君は、その欲する所を見すなかれ。君その欲するところを見せは、臣まさに彫琢せんとす」
トップの人が、素直に心情を部下に訴えてみずからの望む所を述べることは、時として必要となりましょう。しかし、それが事業の方向づけや姿勢についてならともかく、具体的な人事になれば部下は、直ちに自分の判断で都合のいいように推測しますから、注意しなければなりません。