がっしょうれんこう・・・・・ |
出典は「史記・孟珂伝」です。西暦四世紀の中葉、中国戦国時代の版図を示した地図を見ますと、最も北には燕という国があり、次に南下して趙、やや東南に斉があり、さらに、魂、韓と南へ並び、最南端の長江に近いところに楚が示されています。
そして、これらの国を西方から包み込むように当時の最強の国であ った秦の国土が画かれています。
『史記』は、この七国の確執、興亡の歴史であるといってよいでしょう。
この諸国乱立の時代に活躍した論客に蘇秦と張儀という人がいました。2人とも鬼谷先生という謎の人物の弟子ですが、弁論の巧みなことと知略に優れた点を諸候が重用したのでした。まず、蘇秦が燕王に進言したのが「合従策」です。一つひとつの国では西の強国の秦に対抗することはできないが、南北に同盟を結べば十分戦えるというものです。張儀はこれに対抗して「連衡策」を説き、秦を中心として、六国の利害をうまく利用して、横への連衡策を執るというものでした。こ2つを合わせて、「合従連衡」呼ぶことになったのでした。
「合従策」と「連衡策」のかけひきはいろいろありましたが、結局力で勝る秦が、弱い国々の「策」を崩して、中国統一の道を歩むことになる訳です。
「合従連衡」は、政党間の対立、連立合併、さらに強大な政党と中小勢力の政党のかけひさを面白く説明するにはもってこいの成語です。現代も中国の戦国時代もあまり差はないように見えます。
さて、この史実をビジネスの社会にあてはめてみますと、やはり同様な現象をそれぞれの業界内部の問題のなかに見ることができます。実業界は、弱肉強食の論理が働いており、強者の利害が、業界全体に大きく影響します。自然ななりゆきからすれば、中・小のグループは、強者に吸収されてしまうでしょうから、それぞれの特徴を生かして対抗しなければならないでしょう。しかし、無策の連合であっては、意味がないのであり、ここに知略のある人物の戦術・戦略が必要となるのです。つまり、上手の人の方が、視野が広く、対局の全貌をよくつかんでいるといえるのです。
「合従連衡」の類語には、「遠交近攻」(「史記・伝」)の策というのがあります。
これは、やはり同時代の魏国出身の策士である范雎の言葉で、秦の昭襄王に「遠い国と有効関係を結んで、近隣の国の攻略を画策する」というやり方です。この方法は、見事成功し、范?は秦の宰相に任ぜられたのでした。