隗より始めよ
ものごとを始めるとき、自分の考えどおりの行動を部下に求めるのであれば、まず自分から率先して着手しなさいということです。
「戦国策・燕策・昭王」によると、戦国時代、燕の昭王は天下の人材を集めようと思いつき、その方法を有能の士である郭隗に尋ねました。郭隗は「今、王、誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ」つまり「今から、王がほんとうに天下の人材を集めたいと考えるなら、この私、隗から採用してスタートしなさい」と言ったと言います。「自分のように凡庸な失敗の多い人物でも採用されるなら、私以上の人は進んで応募するでしょう」と述べたかったのでしょう。
かくして王は郭隗を採用し、その果断な決定を知った天下の人材が、昭王君のもとに、こぞって集まったといいます。自己推蔦した郭隗もなかなかの人物だったといえます。現在では一般に「隗」を自分のことと受け取り、「自分が先ず率先する」というように使っている場合も見えます。
現代社会の「指導者」の条件として、先ずみずからが行動してやってみせることが大切であるとよくいわれます。山本五十六提督の言葉である、「してみせて、数えて、させて、ほめる」は、まさにこのことを言っているのでしょう。
企業内の各階層に、指導者的な立場の人びとがいて、部下の指導に当たっていますが、口先だけのお説教ばかりで、自分の行動がともなわないことがよく見られます。
「百の説法、屁一つ」という俗諺があり、ありがたいお説教や、行動規範をいくら説いていても、みずからの行いが、それに伴わず、むしろそれを損なうようなことをやったのでは、一度に帳消しになってしまいます。
指導者は、先見性を持ち「先憂後楽」といわれるように、一般の部下より将来のことをつねに先へ先へ考えて行かなければならないものです。しかし、一人よがりになり、自分だけで独走したり、孤立したりしては、なにもならないはずです。「指導理念」はみんなに分かりやすいことが大切であると同時に、「自分がやってみせることができるような、身についたもの」であることが必須条件です。
山本五十六提督の指導は、部下に分かりやすいものであり、しかも提督みずから実行できるものであったに違いありません。
指導者の「率先垂範」はもちろん大切なことですが、「それは当たり前のことを実行することである」といっておられるのは松下幸之助さんです。「いいものを造り、安く売り、適正な利潤を得て、集金をしっかりやる」。これが実行されていれば、部下はそれをまねて行動するのだということです。
現代社会はマニュアル社会ともいわれており、指導者がいなくても、一定の方法に従えば、万事うまく行くと受け取られているむきがあります。しかし、指導者がそれをみずからよく理解し、内容を身につけていなくては、そのマニュアルは生きてこないのです。
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