韋編三たび絶つ

一冊の本を愛読すること。よく内容を味い、本が壊れるくらいまで徹底的になんどもくりかえして読み、自分のものとすることをいいます。

「史記」「孔子世家」に見られる逸話から出た言葉です。孔子は晩年になって「易経」を愛読していたそうです。2500年前には紙というものがなく、書物は竹を細く札のようにならべて、その上に字を書いて皮の紐で編んだものでした。なんどもくりかえし読んでいるうちに、皮の紐が切れてしまうほどだったというのです。

「読書三ペん意おのずから通ず」は、現代版に直したもので、殆んど繰り返し読んでいると意味が自然に分かってくるということです。外国語の文章でも、何回か読んでいるうちに意味が分かってくることがあり、繰り返し読むということが、理解と結びつくことが体験できます。

 本の読み方としての「眼光紙背に徹す」とか「行間を読む」などは、文章の文字づらだけを読んでいるのではなく、熟読しているうちに筆者の言いたいことを察知することをいいます。「斜め読み」や、「飛ばし読み」など丁寧に読まない方法もありますが、含蓄のある文章、内容の豊かな表現の場合は、ゆっくり何度も読まないと真意はつかめません。

 渡部昇一氏の「知的生活の方法」に、「読書は知的生活の大きなポイントですが、熱中して本を読むことが大切だ」とありました。少年の頃、赤表紙の講談本をコツコツ買い夢中になって読んだのが彼の知的生活に入るきっかけになったとのことでした。筆者も同じ経験があったので少々驚きました。「猿飛佐助」「荒木又衛門」「後藤又兵衛」などの物語を読みはじめると、背中がゾクゾクする程おもしろく、途中でやめることができず宿題をソッチノケにして読み耽ったのでした。渡部氏は後に英文学のある作家の著書に没頭し、大家になられましたが、背中がゾクゾクするような知的興奮を感じたのは、さきの講談本を読みふけったのと同じ次元のものであったと述べています。

 電車のなかで塾通いの小学生が小型のゲームに熱中しているのを見ます。また、ゲームの主人公の操作について討論している少年が、ゲーム機を手に持っていなくても、手順について対話ができるのには感心しました。つまり知的な生活は子供のときから、「興味を強く感ずる」ことによってスタートすることが分ります。

 孔子が、晩年になって「易経」に興味を持ったのは、おそらく人生の道徳律や行動基準が、結局は大きな天地の運行と関連があると気づいたからではないでしょうか。

 人生を読書によって豊かにする方法には、多数の本を濫読する方法もありますが、気に入った本を何度も読むということもあると思います。ただし、読みはじめたらやめられないとか、読みなおすとまた新しい事実を発見するような内容の本は、そうはありません。

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