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異なる者をありのままの姿で受け入れるのは、他者によって存在が脅かされることのない、つよくしっかりとした自分がなければ難しい。心に精神的な余裕がなければ、保身モードが働いて、相手のことをいちいち疑わしく、感情的に捉えがちになる。そんなことを痛感するのが、「話し合いの場」だ。
ロヴァニエミ市で通った高校では、ディベート形式の授業がたくさん行われた。国語や心理学、哲学、倫理学では、ディベートが授業のメインになることもよくあった。そうは言っても、最初からクラス全員の前で発言する勇気のある人ばかりではないので、初めに少人数のグループで意見を交した後に、手をあげることになっていた。それはあくまで自分の考えをまとめるための段階で、グループごとに同じ意見でまとまっていなくてはならない、などということは、もちろんない。先生の用意するディベートのテーマが良いのか、毎回必ずと言って良いほどクラスで意見が分かれた。先生は、あくまで誰に対しても対等で、筋が通っていれば誰の見解も良しとするので、自分の意見が人と違ってもそれを口にだしやすい雰囲気が生まれた。
意見を言いやすいとは言え、「賛成」か「反対」かをただ叫べば良いというものではない。自分の見解を明らかにする以上に大切なのは、その根拠について述べることだ。「なぜ、賛成(あるいは反対)なのか?」「そう思うのは、なぜなのか?」それが言えなければ、ディベートは成りたたない。逆にはっきりと伝えることができれば、違う意見の人を説得することも可能だ。
授業でのディベートで火がついてか、友人たちは休み時間にも教室の外でよく話し合いを続けていた。納得できるまでは、途中で止められない様子だった。それほどまでに熱くなっているにも関わらず、冷静な彼らの態度には、隣で見ている私も感心させられた。相手が自分と真逆の意見を持っているのがわかっていても、相手の話を聞く時は少しも身構えずいるのだ。むしろ、「相手の言うことにも、一理ある」という姿勢でよくよく理解しようと試みている。こういったディベートで、人々はお互いに視点を交換し合うことができ、それが自分の視野を広げているように見える。ディベートのような機会を好むにしても、フィンランドの人々は、特別に自己主張がつよいわけではないように思う。自分の大切なものはこれだとはっきり胸を張って言うが、他人が大切にするものも同じように尊重する、といった印象だ。自分の意見も、他人の意見も、客観的に平等に見比べられるのは、冷静さと許容量のある心のゆとりを兼ね揃えているからこそできること。そのような眼を持てば、何が最良かも自然と見えやすくなる。
私のような自分に自信のない人間は、自分の意見を否定されると、人格まで拒否されたような気分になり、どうしても落ちこんでしまいがちだ。口下手で、自分の意見の理由付けがまともにできないと、なおさらだ。フィンランドの友人にそれを話すと、「相手は、あなたの意見に対して反論しているだけで、あなた自身に対してではない。自分の意見と自分自身を切り離して考えないと、無意味に傷ついてしまうよ」という言葉が返ってきた。まったくその通りなのだ。頭ではわかっていても、それがなかなか容易くできるものではないのだが…。
今日の日本では、特に若者の間で、仲間に対して反対意見が言えない、そんな雰囲気がないだろうか。考え方が違えば、「あなたと私は違う」と境界線が引かれ、意見が合ってこそ同じ仲間だと認識される。同じ意見の者同士が集うのは、確かに心地よいだろう。周囲に自分たちを脅かす存在もないから、不安もない。しかし、なぜ自分がそういう意見を持っているのか自分自身にすらろくに説明できない状態で、ただひたすら自分は正しいと信じ込んでも良いのだろうか。他者に問われ、それに答えようとしながら、自分の信じるものを常に磨き続けていかなければいけないように私は思う。そのためには、他者の異なる見解が必要不可欠だということに気がついてからは、何だか今まで以上に生きることを楽しめそうな気がしてきたのだった。
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