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「アメリカで生活できることを感謝している。」
11月24日の感謝祭が間近いある日、近所に住むアマード=カビリさんは、立ち話の中でさりげなくそうつぶやいた。
今年44歳になったアフガニスタン生まれの彼が、はじめて米国の土を踏んだのは27年前。17歳の時だ。共産主義政党人民民主党 (PDDA) のクーデターでアフガン共和国大統領ムハマド・ターウードが暗殺された1978年、カブールで工場を経営していた父親は米国出張中にクーデターのニュースに接し、そのまま米国へ政治亡命した。アフガニスタンに残された母親は、王族の血を引いていたことから投獄されたものの、一年足らずで釈放され、1979年にはイラン経由で米国入りを果たした。インドの寄宿学校の生徒だった子供たち5人がニューヨークのケネディー国際空港に到着したのは、ソビエト軍のアフガニスタン侵攻が始まる数ヶ月前の1979年7月5日。「ちょうど米国独立記念日の翌日だった。」とアマードさんは、当時の興奮を思い出しながら話してくれた。
アフガニスタンに築いた全財産を失い、ゼロからの出発を余儀なくされた父親は、ニューヨークでアメリカン・カフェーを買い取り、新事業に乗り出した。しかし、新天地での慣れないレストラン経営は軌道に乗ることなく、結局2年ほどで閉店に追い込まれてしまった。 |
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ニューヨークでの生活に見切りをつけ、カビリ一家がワシントンDC郊外に引っ越してきたのは、1981年。寝室が二つしかないマクレーンのアパートで7人家族が寝泊りする窮屈な新生活が始まった。ファーストフード店で働いたり、ペンキ塗りをしたり、タクシー運転手をしたりの生活で数年を過ごしたアマードさんは、1988年、NOVAコミュニティー・カレッジで看護関係の勉強をすることを決心。3年後には看護学の準学士号を取得し、バージニアの州都リッチモンドにある4年制大学Medical College of Virginiaに編入学。後に同大学大学院で修士号を取得し、麻酔専門看護師としての試験もパスした。
以来、麻酔看護師として経験を積み、今では複数の病院の仕事をこなす。労働時間は週60時間にも達するほどだ。一方、自宅以外にタウンハウス3軒を投資目的で購入し、その管理にも忙しい。仕事中毒気味のアマードさんに「働き過ぎでは?」と声をかけると、彼曰く「いつも何かしてないと気がすまないだよ。機会があれば、いつでも働くね。」連邦政府勤務の妻ケリーさんは、ワークホリックの夫を横で見ながら、「人生、全てを失うような出来事がいつ起こるかわからないという不安感、恐怖感があるのでしょう」と話してくれた。母国アフガニスタンでの苦い経験が、体に染み付いているというわけだ。
こうした働き者のアマードさんにとって、米国社会にさまざまな形で存在する人種差別はどう映るのだろうか。彼の答えはクールだった。「差別は、どこの国にもあるさ。パシュトゥーン人中心のアフガニスタンでも、モンゴル系のハザラ人は差別を受けているよ。他国に比べたら、アメリカはいい方じゃないかな。9・11テロのような事件があるとイスラム教徒に対する風当たりは強くなるけどね。」それに「専門技術さえ持っていれば」仕事探しで差別の対象にはなりにくいし、不動産ビジネスにおいては金さえあれば「買い手を差別することはない。」
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移民の国で、無一文から今日の富を築き上げた一アフガン人の現実的思考から生まれた生活の知恵と誇りを感じさせる言葉だ。
クリスマスまで後2日。感謝祭と共に移民者が米国を肌で感じ、米国人になっていく過程で欠かせない年中行事だ。各家庭には、クリスマスツリーが飾られ、日ごとにツリーの周りに並べられるプレゼントの数が増えていく。夜になると家の周りのデコレーションに電気が入り、クリスマス気分が一層盛り上がる。アマードさん宅にも、既にクリスマスツリーが飾られ、後はサンタクロースの到着を待つばかりだ。
"Jingle bells, jingle bells, jingle all the way …." 今朝もラジオからおなじみのクリスマスソングが流れてきた。お祭り気分に包まれた米国で、今年もクリスマスツリーを前にこの歌を口ずさむ多くの移民者がいる。アメリカで生活できることを感謝しながら。
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Copyright by Atsushi Yuzawa 2005
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