通じない英語ならいくら勉強しても意味が無い。時間の無駄だろう。でも、通じる英語だったら完璧である必要は無い。英語もコミュニケーションの一手段だからだ。

ある日本の食品会社のニューヨーク駐在員をしていたK氏の英語は、決して上手といえる程のものではなかった。文法の間違いも多かったし、発音も日本人訛りの強いものだった。語彙も限られていたし、時々、意味不明の英語を話すこともあった。しかし、仕事はちゃんとこなしていた。

ということは、拙い英語でも米国人相手にコミュニケーションは成立していたというわけだ。つまり、英語力はそれほどではなくても、英語での会話力はちゃんと持っていたということだろう。

思えば、K氏は実にエネルギッシュな人で、ブルドーザーの様にぐいぐいと前に突き進んでいくような人だった。自分の英語の上手下手を気にしている様子は全く見られず、必要となれば米国人相手に会話を右に左にと引っ張って行くことができる人だった。K氏の英語が当初よく理解できない米国人も、彼の話に自ずと引っ張り込まれていくという調子だった。

3年程のニューヨーク滞在中、国際ビジネスマンとして活躍したK氏にとって、英語はあくまで仕事をする上での一手段に過ぎなかった。もちろん英語が全く話せないようでは仕事にならないが、上手に話せるからといって仕事がうまくいくわけでもない。国際ビジネスマンとして成功する上での秘訣は、ある程度の英語力とその英語力を使いこなす会話力だ。

ただ、この会話力というのはそう簡単に習得もできなければ発揮することもできない。相手の関心を引き、自分の考えを相手に理解させるには、自分の持っている全ての経験や知識の中から必要なものを随時引き出し、それを相手にぶつけ、相手の反応にさらに臨機応変に対応する能力が必要とされる。

何の事は無い。考えてみれば、日本人同士が話をする際には、特に意識もせずに皆やっていることだ。

問題は、日本語でならごく自然にやっていることを、英語で、しかも少し異なったルールの下でやらざるを得なくなった時だ。

米国人はよく話す。グローバル企業の会議では、日本人参加者がまだ話し終えていないのに平気で自分の意見を言い出し、会話を自分の好きな方向に持っていってしまう人がいる。こうした場面に出くわしたら、黙っていないで「私は、まだ話し終えていない」と即、相手から「発言権」を取り戻す行動に出ることも必要となる。発言中の人間を無視したかのような米国人の態度には少々怒りを覚えることもあるが、これも、米国流会話術の一つなのだろうか。テレビ討論会でも発言者を遮っての発言というのはよくあることだから、他人の発言に勝手に割り込むというのは、今日の米国社会では失礼でもルール違反でもないのかもしれない。ある人が話し終わったから今度は自分が話そうと手を上げると、既に他の人が話し始めているというのはよくあること。米国での会議や討論会で本当に発言しようと思ったら、これという時に素早く切り込んでいくためのスピードと自分の存在を参加者に認知させ得るだけの声量が必要とされる。「発言権」戦いに勝つために。

一方、そうした米国流会話術を意識してのことだろうか、米国政府に交渉にやってくる日本政府関係者の中には、とにかく自分の言いたいことをまくし立てるだけで聞く耳を持たない人がいると、ある駐米日本人外交官がぼやいていた。

効果のある会話を英語でするというのは日本人にとって実に難しいことだと思う。しかし、国際舞台で活躍しようとするのであれば、英語でのコミュニケーションは今や避けられないことだ。となれば、自分を理解してもらい、相手を理解できるだけの必要最小限の英語力の習得とその英語力を十二分に使いこなすための会話力の向上には、日頃から努力するしかない。

どうやって英語力、会話力を磨くかは、人それぞれ。とにかく、できるだけ英語に接し、できるだけ英語でもって会話をする機会を持つこと。実践あるのみだと思う。


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