◆文化大革命とは
中国近現代史における最大の汚点といえば、1966年から10年間にわたり中国全土を混乱と恐怖に陥れた「文化大革命」がまず連想されます。
文革は、イデオロギーを掲げた内戦とは性質を異にする毛沢東崇拝のみに狂奔した無益にして特異な現象であり、同じ民族がなぜ互いに裏切り、欺き、攻撃しなければならなかったのか――今も確かな答えを導き出すことはできません。
改革開放時代の只中で、表面上は「文革後遺症」は全癒したかの印象を受けますが、実際はいまなお多くの人の胸に当時の陰惨な記憶が封印されているのです。
北京副市長の呉?が書いた歴史劇「海瑞免官」を巡り、姚文元が「皇帝に諫言して免官された海瑞は右派の象徴」とする批判文を発表したことが、嵐の文革の静かな幕開けでした。
この批判に毛が好意的見解(皇帝を自身、急進的な社会主義化を目指した「大躍進」の誤りを毛に諫言し、失脚した彭徳懐を海瑞に置換したため)を示したことから、反右派・ブルジョワ闘争が勢いづき、やがてそれは狂信的な毛崇拝へと変質していきました。
その急先鋒となったのが、江青、姚文元、張春橋、王洪文の「四人組」、学生組織の「紅衛兵」、クーデター発覚後に墜死した林彪など。彼らの批判の矛先は「走資派」(資本主義分子)と名指しされた国家主席の劉少奇、ケ小平をはじめ、多数の無辜なる文化人に向けられました。「吊るし上げ」による批判は暴虐を極め、1976年に毛が逝き「四人組」が逮捕されるまでの間、著名作家の老舍のほか、天下の国家主席までもが迫害死するなど、日常的に悲劇を生み出したのです。
三度の失脚を味わったケ小平の復権後、党は文革の非を認め、物故した人物を含む多数の名誉回復を行いましたが、直接責任のある毛の評価については「三分の誤り」という曖昧な表現で塗糊されました。
文革を体験して芽生えた個人崇拝と精神至上主義に対する懐疑と反発が、のちの「天安門事件」の思想的基礎となったのです。
|