名将の影に名軍師あり。
彼らはどのように主を支え、
国を整え、人を操ったのか。
その真髄を知る。
名前 | 生没年 | 主 | 概略 | |
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壱 | 名前太田 道灌 |
生没年1432 ~1486 |
主扇谷 上杉家 |
鎌倉公方を補佐する関東管領上杉家の一族、扇谷上杉家に仕える太田家に生まれる。享徳の乱の最中に家督を相続。以後、江戸城を築城し周辺を整備。また30数回の合戦を戦い抜いたが、最後には暗殺されてしまった。兵学や和歌にも通じていた。 |
弐 | 名前太原 雪斎 |
生没年1496 ~1555 |
主今川 義元 |
今川義元の教育係を務める。今川家家督争いの際は、義元が相続できるよう尽力。後、義元に軍事・政治の最高顧問として重用された。武田信虎との同盟、織田信秀との合戦、武田信玄・北条氏康との同盟などを行う一方、お寺を開くなど僧侶としても活躍した。 |
参 | 名前山本 勘助 |
生没年1501 ~1561 |
主武田 信玄 |
10年間諸国を回って築城術や兵法を極め、今川家に仕官しようとしたが断られる。後、武田信玄に召抱えられ数々の城を落とし、多くの武功を立てるも、上杉謙信との川中島の戦いで戦死。 |
肆 | 名前駒井 高白斎 |
生没年? ~1563以前 |
主武田 信玄 |
主に武田信玄の下で、信玄から家臣団への通達・家臣団から信玄への報告の取り次ぎ、甲州法度次第(武田家の分国法)の起草、対朝廷外交、信濃侵攻の際は先陣を切るなど、内外両面において多用な活動を行った。 |
伍 | 名前角隈 石宗 |
生没年? ~1578 |
主大友 宗麟 |
兵法のほか、占術、気象予測に優れていた大友氏の家臣。人格者であったとされ、大変な尊敬を集めていたという。肥後菊地家との戦いなどで活躍。薩摩島津家との戦を起こそうとする宗麟を諌めるも、受け容れられず、その島津家との合戦にて戦死。 |
陸 | 名前立花 道雪 |
生没年1513 ~1585 |
主大友 宗麟 |
大友家に仕え、毛利家や筑前の諸勢力との争いで北九州を転戦。その勇猛は諸国に知れ渡っていたという。大友家が島津家との戦に破れてからは、家臣に離反者が相次ぐなか忠誠を尽くし、戦果を挙げ続けたが、陣中で病死。 |
漆 | 名前川田 義朗 |
生没年? ~1595 |
主島津 義久 |
兵術を学び、島津義久の軍師となる。また、垂水の地頭職も務めた。日向伊東家、豊後大友家との戦い、また沖田畷の戦い(当時の九州2強、肥前龍造寺家と島津家との間に起きた)などで活躍。 |
捌 | 名前小早川 隆景 |
生没年1533 ~1597 |
主毛利 元就、他 |
毛利元就の三男で、小早川家を継承した。毛利水軍を率い、軍事や、その情報収集力を活かして政治・外交面でも活躍。秀吉の下では五大老の一人に任ぜられるなど、その信頼は厚かった。また、秀吉からは伊予一国を賜り、非常によく治めたという。 |
玖 | 名前天海
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生没年1536 ~1643 |
主徳川 家康 |
諸国の寺で学を深め、その後も各地の大名に招かれるなどして移住を繰り返す。小田原征伐の頃には、徳川家康の陣幕に居たという。家康の下で朝廷との交渉、宗教政策にあたり、方広寺鐘銘事件にも深く関与した。また、江戸の都市計画にも関わったとされる。 |
拾 | 名前本多 正信 |
生没年1538 ~1616 |
主徳川 家康、他 |
鷹匠として家康に仕えるも三河一向一揆に与したとして徳川家を出奔、松永久秀に仕える。やがて久秀の下も去り、諸国を流浪。後、家康の下へ帰参した。江戸開幕後は、幕政を実際に指導。2代将軍秀忠の下でも幕政に参画するが、家康の死後に隠居した。 |
拾壱 | 名前鍋島 直茂 |
生没年1538 ~1618 |
主龍造寺 隆信、他 |
龍造寺隆信とは義兄弟。豊後大友家、薩摩島津家との戦いを経る中で、肥前龍造寺家の実権を掌握。秀吉の九州征伐の際は先陣を務めて島津家と戦った。また、関が原の際の九州での戦いが家康に評価されるなど、時の権力者にも公に認められ、肥前佐賀藩の藩祖となった。 |
拾弐 | 名前安国寺 恵瓊 |
生没年1539 ~1600 |
主豊臣 秀吉、他 |
安芸の安国寺にて出家。各地の寺に勤めつつ、毛利家の外交僧として豊後大友家との戦いや、対室町幕府、織田家との外交に携わった。毛利家と秀吉との橋渡しをする中で秀吉に気に入られ、側近に取り立てられた。関が原の戦いには西軍として臨み、捕縛、斬首された。 |
拾参 | 名前豊臣 秀長 |
生没年1540 ~1591 |
主豊臣 秀吉 |
秀吉の弟。豊臣政権において、実質的に諸大名を統制する権限を与えられていた。播磨、但馬、大和の三国を治める内政面でもその辣腕が伺え、大和郡山城にて病死した際、城内には金銀が大量に備蓄されていたという。 |
拾肆 | 名前島 左近 |
生没年1540 ~1600 |
主石田 三成、他 |
初め畠山家に仕え、その没落後は筒井家の元で、大和統一に貢献。三成に召抱えられる際は、三成の知行の半分という破格をオファーされた。「三成に過ぎたものが二つあり、島左近と佐和山城」と言われるほどであった。関が原にて奮戦するも、銃撃に遭い討ち死に。 |
拾伍 | 名前竹中 半兵衛 |
生没年1544 ~1579 |
主豊臣 秀吉、他 |
初め斎藤家に仕え、織田家との戦で活躍。一時浅井家に仕えるも隠棲。その後秀吉を通じて織田信長に声をかけられるも、秀吉の才を見抜き、秀吉の家臣となる。中国攻めの最中、陣中にて病死。黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。 |
拾陸 | 名前山中 鹿介 |
生没年1545 ~1578 |
主尼子 義久 |
幼少の頃より尼子家に仕え、毛利元就が攻めてきた際は複数の将を討ち取るなど奮戦。しかし、最終的に尼子家は敗れる。その後3度にわたり尼子家の再興を試み、明智光秀や羽柴秀吉の下で毛利勢と戦うも捕らえられ、謀殺された。 |
拾漆 | 名前黒田 官兵衛 |
生没年1546 ~1604 |
主豊臣 秀吉、他 |
播磨の小寺家に仕えている折、主君に織田信長への臣従を進言。織田家臣として羽柴秀吉の与力となる。本能寺の変の際の中国大返しの立役者とされる。また、小田原無血開城にも尽力。関が原後は福岡藩52万石を治める。キリシタンでもあった。 |
拾捌 | 名前片倉 景綱 |
生没年1557 ~1615 |
主伊達 政宗 |
輝宗の小姓として仕え、後に政宗の近侍となり重臣として取り立てられた。摺上原の戦い、小田原征伐、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、関が原の戦い、大坂の陣等、伊達家の主要な戦の大半にかかわっている。また、伊達家の対外交渉も担当していた。 |
拾玖 | 名前直江 兼続 |
生没年1560 ~1620 |
主上杉 景勝 |
景勝の下、上杉家の執政を務める。織田信長の死後から豊臣政権期、関が原を経て大坂の陣までの間、領地の整備・開墾や数々の合戦に奔走した。米沢藩9代藩主上杉鷹山は、兼続を手本に藩政改革を行ったという。 |
弐拾 | 名前井伊 直政 |
生没年1561 ~1602 |
主徳川 家康 |
今川家の家臣、井伊家の生まれ。今川家の滅亡によって出家するが、後に徳川家康に見出され小姓として仕える。家康が武田家の旧領を手中に治めた後、武田の旧臣を率いて多くの武功を挙げた。関が原では東軍指揮の中心を本多忠勝と共に担った。 |
弐拾壱 | 名前本多 正純 |
生没年1566 ~1637 |
主徳川 家康、他 |
本多正信の長男。一度徳川家を追放されていた父の復帰と共に、家康に仕え始める。家康が秀忠に家督を譲ってからは、駿府で家康の補佐を務める。家康、正信の死後は秀忠に仕えたが、秀忠や秀忠側近に疎まれるようになり、失脚した。 |
1か月目 組織の中の 軍師の役割と、 登場軍師21人の概略 |
軍師とは?/太原雪斎、山本勘助、山中鹿介、直江兼続、黒田官兵衛、小早川隆景、鍋島直茂、安国寺恵瓊、立花道雪、片倉景綱、竹中半兵衛、豊臣秀長、島左近、太田道灌、駒井高白斎、川田義朗、角隈石宗、天海、本多正信、本多正純、井伊直政 |
2か月目 軍師の「勝てる」 戦略&戦術に学ぶ |
第1章 軍師はいかに学び、資質を磨き、情報を集めたか
第2章 実戦における軍師の活躍に学ぶ |
3か月目 軍師の日常的な政策と軍師の失敗に学ぶ |
第1章 軍師の日常的統制力、統治に学ぶ
第2章 軍配者として精神面で力を発揮する
第3章 軍師の失敗に学ぶ
第4章 徳川幕府安泰の礎を築いた軍師たち |
教材構成 | テキスト3冊/提出課題3回 |
著者 | 小和田哲男(おわだ てつお)(文学博士、歴史学者、静岡大学名誉教授) 日本の文学博士、歴史学者。特に日本の戦国時代に関する研究で知られる。静岡大学名誉教授。 |
●はじめのうちは、自らを登場する軍師に置き換え、また重ね合わせ、それぞれのエピソードの局面での考え方や行動を、自らと比較しながら進めていましたが、徐々に登場人物を自分に仕えてくれる部下として見るようになりました。最終的には理想とする部下像、またその育成にはどのようにしたら良いのかという部分に考えが及びました。多面的な思考ができ、非常に有意義でした。(運送・男性・50代)
●戦国軍師にもいろいろなタイプがいたことが非常に興味深い。なんとなく共通点は情報収集・分析力・論理力、ここ一番で先頭に立つ、筋を通す、上下に気配りをするというところでこれは軍師に限らず現代に通ずる。(40代・男性)