天網恢々、疎にして失わず

てんもうかいかい、そにしてうしなわず・・・・・
天の網の目は、粗大で見逃してしまうことが多いのではないかと考えられがちですが、天は良きにつけ、悪しきにつけ、しっかりと、漏れのないようによく見届けているものなのです。

 「老子・七十三章」の文言であり、この前文に「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずしてよく応じ、召さずしておのずから来たり、襌然として(作為を持たぬ様)善く謀る…」とあり、雄大な理論が展開されます。

意訳してみると次のようになります。
「自然の運行というものは、素晴らしく懐が深く、大きなもので、その道に従ってさえいれば、争わなくても勝つようになり、相手に言わなくても、自分の意図が通じ、必要と思えば、呼ばなくても訪ねてくるものです。自然のはかりごとは、人の考えよりずっと壮大なものです。」悪事がバレてしまうのは当然の帰結といえます。
しかし、一般的には「人は悪いことはできません。天はよく見ていますから、必ず罰せられます」というように受け取られています。別項で説明した「天知る、彼知る、己知る」と同じように使われているのです。

孫子の述べた「天の道」や「自然の摂理」からすれば「天網」は善行も見逃さない筈です。「陰徳あれば陽報あり」という格言は、この一場面を説いたものです。「准南子・人間訓」に「それ陰徳ある者は、必ず陽報あり、陰行ある者は、必ず昭名あり」とあります。「もし、人知れずよい徳行を積んでいると、だれにでも目にとまるような報いがあり、陰でよい行を重ねているならば、必ず、輝かしい名が世間に知れるようになる」といっているのです。

日常の生活のなかで、この訓言をあてはめてみますと、必ずしも、中国故事のような結果にならず、つまり、「悪が栄え、善が亡ぶ」ように見え「憎まれっ子、世にはばかる」ことになっているように見えることが少なくありません。
善行を積んでいるのに、結果がうまく行かず、「神も仏もないものか」という心境になったり、「天を仰いで、嘆息す」ということになってしまうのです。

筆者は、ながいこと、老子の一語である「天の道は争わずして勝つ」ということが、理解できず、むしろ、「天の道に逆らっている」人の成功が気になってしまう時期さえありました。
しかし、人生の経験を積むうちに「あくどいことを積み重ねて成功した人物」の最後が、必ずしも幸福な結末になっていない例を多く見るようになりました。また、成功して、栄耀、栄華を極めたように見えても、その最後の心境が「みじめなもの」に終わっているケースも目の当たりにしました。

つまり、老子の「善く勝つ」は「最後の勝利」のことを述べたものなのです。


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