巧詐は拙誠にしかず

こうさはせっせいにしかず・・・・・
人間関係を保つために上手に技巧をつかうよりも、多少やり方はまずくても誠意をもって交際し、やがて本人の意向が相手に伝わる位の方がよいでしょう。ごまかして、上辺を繕ってもやがては、露見してしまうものです。

 「韓非子・説林・上」に見られる言葉です。「人間関係は誠意が大事なのであって、ごまかしは通じない」と解してよいでしょう。孔子が最高の徳として「仁・・・まごころ」をあげたのと類似しているとも受け取れます。

韓非子が、合理主義者で策士として知られたシャープな頭脳の持ち主であることを前提に味わってみると、次のようにも受け取れます。
「拙誠は、手段として意識的に作戦上使っても、成功する可能性が多いものです」というように、技法としての「拙誠のすすめ」と解するのです。能弁の人が、よどみのないような調子で熱弁をふるうよりも、自分の言葉で訥々と語った方が、聴衆の心を打ち、印象も強く、徹底した伝達ができることに着目しているのです。人間関係において、技巧をもてあそんだ小賢しい手口で交際するよりも、地道にこつこつと実績を積み上げて、相手の信用を得るような方法の方が効果があるからです。

孔子は、口先ばかりうまいような人を避けるようにすすめています。「巧言令色、鮮し仁」(論語・学而)というように相手が喜びそうな言葉や、へつらったような態度をする人物には、誠実な人は少なく、信用できないといっているのです。

両者の考えを結合して、現代の実生活にあてはめてみると、話のうまい人の言うことを信じてよいのか、誠実そうで素朴な態度の人物について、まるで疑いをはさまなくてよいのか、判断するのはむずかしいといえます。結論として、
@うっかりして、うまい話に乗ってしまって、あとで後悔するようなことがないようにする
A診誠実そうに見えても、本音のところがなかなか、読み切れなくて騙されることがあるから、やはり表面だけで判断しない
というように、人間の交際術は単純にはいかないようです。

しかし、孔子の立場からみれば「かりに自分が欺かれることがあっても相手を裏切ることはしない。また、他人の立場に立ち、その身になって考える、いわゆる恕の心を失わないようにしたい」と自省の念を忘れなかったのです。

技巧的な賢い人生感から生まれた行動は、それとなく、相手方に伝わるということを考え合わせると、自然体で対応するしか方法がないのかも知れません。
人間関係はテクニックだけではダメであり、この教えは技巧に流されることを戒めたものとなっていると思います。

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