出典は「老子・四十一章」で、「大方は隅なく、大器は晩成」というものです。「大方」とは「大きな四角」のことですが、どんなに大きな四角形でも隅がないということは常識では考えられず、四角形である以上四つの隅が必ずあります。しかし、とてつもなく大きな箱を内側から見た場合、角がある四角なのか、丸いものなのか見当がつかなくなってしまいます。
円は図形こすれば、当然丸く見えます。しかし、円を無限に大きくして行って、一部を取ってみれば、弧ではなく直線となってしまうのと同じ理でしょう。
近代的な非ユークリッド幾何学が、平行線が交わるとしたり、円が直線であると論述したのと同じ考え方が、すでに老子によって述べられていたということは驚くべきことです。
類語としては、「大器小用」というものがあります。大きな器にごく少さなものを盛る、つまり適材が適所に使われていないという意味です。
この格言は「三国魏志.崔?伝」で説明されています。
魏の有名な武将である崔?は風格のある優れた人物であるとして知られていましたが、その従弟の林という男は、みかけがよくないうえに、サッパリうだつがあがらず、まわりの人から馬鹿あつかいされていました。しかし、崔?は「大きな鐘や、鼎は鋳造するのに時間がかかり、なかなか出来上がらないものですよ。林もこのように大器であるためなかなか完成しないのです」といい、その将来をゆっくり待って見守っていくようにしました。はたして、林は後に天子を補佐する立派な人物になったとのことです。
現代では、子供たちの成績が悪いときに「この子はきっと大器晩成型なのでしょう」などといってなぐさめるときに使われたり、企業内でも、あまり歓迎されない人物のことをいったりします。仕事のことを教えても、もの分かりが悪く、業績も、もう一つ上がらない部下のことを、○○君は大器晩成型なのだ」といったりします。
人間が小型になって、小賢しくコセコセと働き、小回りのきく行動などが尊重されてくると、大型でゆったりして、大局をじっと見るような人物は、どうしても、うとまれがちになります。
新しい時代のことを展望したとき「大器晩成型」を見なおす必要性はないものでしょうか。
人間の能力を短期で見ず、大きく育ててその真価を発揮させるようにすれば、新しい時代になにかプラスのある次元の変わったことを考え出すかも知れません。隠れた真価を認めれば崔?と林のような関係が成立してくるでしょう。
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