貌をもって人を取る

かおをもってひとをとる・・・
「人はみかけによらぬもの」といわれているように、外見や顔つきや服装などから判断すると間違ってしまうという警告の教えです。人の才能や資質は顔つきだけでは分かりません。

  「史記」仲尼弟子列伝に見る孔子の失敗談から生まれた格言です。
孔子の弟子に、あざなほ子羽、本名澹台滅明という人物がいました。彼の顔つきはまことにひどいもので、孔子は弟子にするのに二の足を踏んだ位です。ところが、勉強を了えて仕官したところ、謹直な態度で行政に当たり、「行くに径に由らず」---つまり、道を歩くのにも公道を通り、横道へは行かなかったと評される程になりま
した。この名声は当時の諸侯にも知られる程だったといいます。

孔子はこのことを開いて、「吾、貌を以って人を取りて、これを子羽に失えり」つまり、「私は顔つきから人物判断して、人を見そこなうという失敗をおかし、子羽を見誤った」と嘆息したとのことです。
世には、面食いなどという言葉があり、美しい顔の人を大事にする傾向の人物も少なくありません。
しかし、このような偏見は人生を狭くし、人間関係をまずくしてしまうのですから、「人は見かけによらぬもの」という日本の諺の教えに習いたいものです。

筆者は、商社の人事部に籍をおいて、11年間もの間、採用から人事異動などで「顔を見て、人間の内容を判定するという職業に携わっていましたが、「外見や、少しぐらいの交際で、人を判定してはいけない」ということを身にしみて感じてきました。
人の顔の外見から、その人の運命を判断する術として、観相学、人相学などというものがあります。こちらの方は、運命判断とともに性格判断のジャンルにも鑑定の範囲をひろげております。しかし、外見が能力や資質の優劣にはまったく関係がないことは、実例から証明できるのです。

一方、この教訓とは、やや趣を異にしますが、「人には四十歳以上になったら、自分の顔に責任を持たなければならない」ということをよく聞きます。つまり、まずい顔は遺伝によるわけですから、若いうちは顔立ちの責任は、両親のものともいえます。しかし、年齢が四十になれば、その責任はすべて自分にあるということです。

教養のある人は、どことなくインテリの雰囲気が生まれてくるようになり、また修養を重ねた人物は、それなりの深みのある顔つきになるものです。
また、一見美男美女ふうの顔つきでも、いやしい生活や醜悪な行状を重ねているとなんとなくその影響が、顔にあらわれ影をつくって、嫌悪感の生まれるような顔になってしまうものです。

つまり、「顔つきで人物を評定する」ということは、物理的な外見だけからすれば、見誤りやすいのですが、内容的なものが、表面ににじみ出しているのを見破ることができれば、ある程度の判定ができるものです。

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