袖振り合うも他生の縁

道のいきすがりに、袖が振れ合うというような、偶然でほんのささやかな出会いであっても、それは前世からの深い緑で起こるのです。人との絆を大切にしたいものです。

 仏教の世界観には、命あるものは死を迎え、そして何度でもれかわり、輪廻のなかを回り回っているという思想があります。したがって、正しくは「他生の縁」ではなく「多生の縁」といわなければなりません。しかし、「多生」ということが、一般に馴染みにくい言葉であるというところから、「他生」の方が多く使われており、また許容された用法となっています。
 私たち日本人は、日常生活のなかで「ご先祖の生まれ変わり」とか、「前世で悪いことをした報いが来た」などと、「因果応報」というような考え方を比較的、自然に受け止めているようです。
 
もちろん、「袖」は着物の腕を通すところのことてすが、現代風にいいかえてみると、「電車のなかで、偶然となりの席に座った縁」というような状況とおきかえてみることでよいでしょう。茶道の心得のなかにある「一期一会」は「一生に一回だけしか、お会いできないのかもしれない、と入念にお茶を入れること」をいいますから、同意義です。

日常生活において「縁」という字を使っている言葉の中に「縁談」があります。もちろん、結婚の話のことですが、これがもし、うまく行かなかったときは「縁がなかった」といって、深く詮索しないことになっています。つまり、前世ですでに縁ができるかどうか決まってい
たもので、現世で現実に現れたにすぎないということです。
 また、「縁起が良い」などという言葉をよく開きます。「縁起」は物事の初めの?末を説明したものとして使われ、「石山寺縁起」といえば、石山寺をめぐるストーリーを綴ったものです。一般には吉凶の前兆として、よいことがあれば「縁起が良い」という訳です。こちらの方も、ものごとの因縁はすべて前世の約束ごととしてすべて決まっているということのようです。
 「縁なき衆生」は、仏縁のない人間を指していることから、なんのかかわりのないグループのことをいいます。 人の生涯のすごし方を見ていると、「他人とのきずなや縁を大切に
している人物」と、比較的粗雑に、無造作にすごしている人とが見られます。そして、人との関係を丁寧に扱っている人は幅広い交友関係が生まれるのみならず、強力な人物ネットワークを持つことになることが多いようです。
 会社の同僚や得意先などで交際が始まったのであれば、深い因縁があった訳ですから、念入りなおつきあいが大切であり、粗雑な応対をしたり、相手を疎外してはならないといえます。
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