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Case Exercise-1 ナショナルブランドか自社ブランドか!?
(ディペンダブル・ケミスト社)



ディペンダブル・ケミスト社のトップマネジメントは大きな意思決定をしようとしていた。自社ブランドの導入である。それまで自社ブランドを持たなかった同社にとって、それは大きな戦略的意思決定であった。


ディペンダブル・ケミスト社の歴史
ディペンダブル・ケミスト社は医師によって処方される薬ではなく、ドラッグストアで販売されているような一般向けの医薬品や石鹸、化粧品などの生産を行うメーカーであった。ディペンダブル社は大企業ではなかったが、創業以来、高品質の製品を供給し続け、顧客の信頼を得るとともに、着実に成功してきた。ディペンダブル社の取引相手は、知名度の高いナショナルブランド(NB)であった。ディペンダブル社の製品ラインには自社ブランドの製品はなく、医薬品や石鹸、化粧品を知名度の高いNB用に供給してきた。

NBに製品を供給するという戦略は、これまでは効果的なものであった。まず、全国的に知名度が高く取引相手として信頼のできる企業と取引ができるという利点があった。いちいち取引相手の信用などを調査する必要はまずなかった。さらに、知名度が高い企業と取引をしていることによって、他の中小の取引相手に対して交渉力を持つこともできた。
また、ディペンダブル社は独自に流通コストを負担する必要もなかった。製品の流通は全てNBによってなされていた。製品は小さな個人経営の小売店から大手の小売チェーン店まで幅広い流通チャネルで販売されていた。
製品の広告に大きな予算を割く必要もなかった。製品の広告はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などさまざまなメディアを通じてNBによって大規模になされていた。そのため、広告費に多大の予算を割くかわりに、研究開発に多くの予算を割くことが可能となっていた。


環境の変化
1990年代に入り、ディペンダブル社を取り巻く環境に変化が現れ始めた。経済状況の停滞が長引いているため、最終消費者が価格に敏感になってきたのである。少しでも安いものを買おうと、セールには長蛇の列ができることもあった。折り込み広告のクーポン券を切り取って買い物をする消費者も増えてきた。
そのため、NBの多くは値引きをして売上の確保を図るようになってきた。石鹸や一般向けの医薬品では価格競争が激しくなってきた。そしてこの価格競争はNBの財務状況を圧迫し始めていた。そのため、NBの多くは、ディペンダブル社に製品の値下げを要求するようになってきたのである。


自社ブランドの検討
この環境の変化に伴って、ディペンダブル社のトップマネジメントは、これまでの製品戦略の見直しを検討していた。これまでNBにのみ供給してきた製品ラインに、自社ブランドを導入することを計画していたのである。
自社ブランドを導入した場合には、NBと同じ品質を保ちながら、低い価格を設定できることは分かっていた。消費者が価格に敏感になっている今、ディペンダブル社のプライベートブランドは競争力を持ちえるものであった。最近の経済状況によって、人々は価格に敏感になってきている。少しでも安い商品を探すようになってきたのである。消費者が価格に敏感になっている今こそ、知名度はないものの価格競争力のあるディペンダブル社の自社ブランドを一気にNBとして成功させるチャンスであった。
さらに、大手のスーパーマーケットチェーンがプライベートブランド製品を売り出し始め、成功を収めつつあったという状況もディペンダブル社に自社ブランドの導入を計画させる要因であった。大手スーパーのプライベートブランドの包装はNBに比べて簡素であり、知名度も低かったが、価格は安かった。そのようなプライベートブランドが大手スーパーで成功しているのである。
また、もしも、NBよりも価格が安いのであれば、知名度が低かったとしても当該製品を試してみたいという消費者の声がレポートされ始めていた。
このように自社ブランドの導入には最適な状況が整っていたように思われた。しかも、自社ブランドが成功すれば、これまでの顧客であった知名度の高いNBに対する交渉力が高まるという期待もあった。しかしながら、反対に、自社ブランドの導入に対しては、これまでの顧客であるNBからの反応が厳しいものになるということが考えられた。さらに、自社ブランドを立ち上げるには多くの費用が必要となるということも分かっていた。広告などの販売促進活動はしなければならない。流通チャネルも開拓しなければならない。しかし、目の前に広がるチャンスは大きいようにも思える。

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Case Exersise-2 環境変化の落し穴
(ギルバート社)


ギルバート社はおよそ50年の歴史を持つ玩具メーカーであった。創業以来、ギル
バートの名前はその高い品質で良く知られていた。しかし、1960年代に入り、玩具市場が拡大するにつれて、その状況は一変した。そして、ついに1967年2月にその歴史を閉じることになってしまった。

ギルバート社の歴史
ギルバート社はアルフレッド・ギルバートによって1916年に設立された。子供向けの小さなおもちゃの生産から始まった企業であった。ギルバートは高齢であったため、まもなくギルバートの長男であるギルバートジュニアが経営を引き継いだ。ギルバート社は決して大規模な企業ではなかったが、1950年代には確実にトップテンに入る玩具メーカーとなっていた。

ギルバート社の製品は教育的なものが多く、科学実験キット、顕微鏡キット、エンジニアリングセットなどが人気であった。当時は、科学に対する期待や憧れが強く、ギルバート社の製品は子供たちからだけでなく、両親や祖父母からも子供へのプレゼントとして人気を集めていたのである。その他にもギルバート社のアメリカンフライヤー鉄道やエレクターセットなどが当時の人気のおもちゃの1つとなっていた。ギルバート社の製品価格は他の玩具メーカーの製品価格と比べると、決して安いものではなかったが、ベーシックで飽きのこないデザインと高品質が好評で、兄弟だけでなく、親から子供へと何世代にもわたって楽しむことができるものであった。


環境の変化
創業以来、ギルバート社は着実に成長していった。しかしながら、玩具メーカーを取り巻く環境は1960年代に入ると急激に変わっていった。

まず、1960年代に入ると玩具市場全体が拡大し始めた。しかし、その市場の性質はこれまでのものとは大きく異なり、テレビがおもちゃのマーケティングにおいて重要な役割を果たすようになってきた。テレビが普及し始めたことによって、テレビコマーシャルがマーケティングの手段として重要性を持つようになったのである。テレビコマーシャルを使うことによって、一瞬にして多くの人々に製品を知ってもらうことが可能になった。しかし、テレビを使った広告は大きなコストがかかったため、それを利用すると損益分岐点が高くなってしまうという問題もあった。しかしその影響力の大きさから、多くの企業がテレビコマーシャルを使うようになっていった。その結果、玩具の流行の移り変わりはそれまでとは比べものにならないほど速くなっていった。今年の流行は、来年には流行おくれになってしまう状況ができてきたのである。

また、玩具の流通の形態も大きく変化していった。それまでは小さな個人の店舗で販売されるのが普通であった。小さな個人の店舗では、店員が詳しく商品の説明をするのが通常であった。しかし、1960年代に入り大規模なチェーンストアでも玩具は売られるようになっていった。大規模なチェーンストアではすべてセルフサービスであり、消費者はほとんど店員から説明を受けることなく、おもちゃをカートに入れ、買うようになった。大規模なチェーンストアは、低価格で、しかも大量にテレビやラジオでコマーシャルがなされている知名度の高い玩具をならべるようになっていた。


環境変化への対応
ギルバート社のトップマネジメント上で述べたような環境の変化を少なくとも1961年まで認識していなかった。1960年の売上は126万ドルであった。しかし、この売上は、1961年に116万ドルに低下した。創業以来、初めての売上の減少であった。この売上の減少に対して、トップマネジメントは、2つの要因があると考えていた。1つの要因は、広告が十分でなかったことである。それまでギルバート社はテレビによる広告をしたことがなかった。もう1つの要因は、新製品の数が十分でなかったことであった。ギルバート社は毎年新製品を発売していたものの、流行の移り変わりが激しくなった状況では、その数が十分ではなかったとトップマネジメントは考えていた。

そのため、まず、流行に合わせた新しい製品を開発し、テレビコマーシャルを開始することによって、200万ドルまで売上を伸ばす計画が立てられた。販売スタッフも50%増員した。より積極的な販売促進活動は売上に直結すると考えられていた。スタッフを増員するとともに、流通チャネルも小さな個人の店舗から、大規模な小売チェーンストアへと転換していった。販売部門のトップも一新した。

しかし、このマーケティング戦略は成果をあげることができなかった。1962年には売上が109万ドルに落ち込み、およそ30万ドルの赤字となった。ギルバート社創設以来の赤字であった。新製品の開発や、テレビコマーシャル、販売スタッフの増員の結果、コストが拡大したことが原因であった。しかし、トップマネジメントは、1963年に発売される新しい製品に大きな期待をかけていた。同社はそれまで幼稚園児から小学生低学年を主なターゲットとした玩具を生産してきた。それまでの製品数は50ほどであった。それを一挙に307アイテムへと増やしたのである。しかもそれは教育的なものというよりは、広く一般に受け入れられやすいように大きく流行を取り入れたものであった。対象年齢も、幼稚園児から小学生の全学年をカバーしていた。この拡大戦略は、子供の数の増加に伴ってさらに拡大するであろう市場に対応したものであった。

また、ギルバート社は製品のパッケージも、それまでの簡素でベーシックなものから、フルカラーで印刷されたものへと一新した。大規模チェーン店の大きな商品ケースの中でも目立たせるためであった。トップマネジメントは大きな売上と利益を見込んでいた。そして、同年のクリスマスシーズンを迎えた。

しかし、1963年の売上は107万ドルであった。200万ドルに及ばなかっただけでなく、トップマネジメントの期待とは反対に、売上はさらに低下したのである。クリスマスシーズンの後には、35万ドル分の在庫が残されていた。


問題の修正
1963年には赤字が60万ドルになっていた。ここから同社は大きな改革を行っていった。はじめに販売部門の変革を行った。それまで増員していた販売スタッフを削減した。販売は外部に委託した。外部に委託することによって、販売に対して詳細な注文を出すことはできなくなったが、自社で販売部門を抱えておくよりはコストが安くなった。また、工場の人員も削減した。間接費用のコストダウンが徹底的に図られた。また、1964年のクリスマスシーズンに向けて、流行を取り入れた20の新しい製品が製品ラインに加えられた。

このことによって、売上は上昇し、114万ドルとなった。1994年は利益を計上できそうであった。しかし、将来の利益を拡大するために、現在在庫として抱えている商品の処分をすることを決定し、結果として19万ドルの赤字が計上された。そのため、翌1965年のクリスマスシーズンに大きな期待がかかった。製品ラインを再び拡大し、テレビコマーシャルを大量に流した。さらに小売業者に65000個ものディスプレイ用の小物を配った。

1965年には大量にテレビコマーシャルを流したため、売上は149万ドルとなった。売上は拡大したものの、トップマネジメントが計画していたほどではなかった。今期も赤字は免れなかったのである。大量のテレビコマーシャルと小売業者へ配った小物のコストが利益を圧迫していた。また、新しく製品ラインに加えた007レーシングセットの返品が相次いだこともこの原因であった。工場の人員を削減したことが影響し、この製品の組み立てが粗雑になってしまっていたのである。返品が相次いだことによって、それまでの高い品質といつまでも楽しめるというギルバート社のイメージは完全に過去のものとなってしまった。

この結果、ギルバート社の財務状況は悪化し続けた。さらに大量の新しい製品を導入し、テレビを使ってプロモーションを行ったが成果はなかった。ギルバート社は1967年2月に破産し、その歴史に幕を閉じた。

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