ワークライフバランス
人事コンサルタントが会社に関与する場合、依頼されるのは、組織をより高業績志向にするという話か、離職率を下げるようにしてほしいという話か、おおむねそのいずれかである。本来、この2つは共に成立することは難しい問題である。
高業績志向という話の場合、私は慎重になるが、業績が上がれば、収益が増えるし、人件費も多く割くことができるし、それによって優秀な人材を確保することができるとクライアントは言う。またそれについてこられない人材は辞めてくれてもいいと言い出す。しかし、こういう高業績に向けた運動は組織を疲弊し、長期的に見れば、組織を劣化させてしまうことも多い。90年代前半、部署別責任制度や成果配分方式で踊った会社にコンサルタントで関与した経験もあるが、ほとんど残っていない。
一方、離職率を下げたいという会社は、いろいろな策を講じて何とかしたいというのだが、賃金改定の原資がないこともあり、人事制度としてはなかなか策を弄することができないことが少なくない。そもそも低収益で、労働市場から人材を確保できない企業だったりする。
上記の2つの要請を同時に求めてくるところもあるが、高業績志向の場合、従業員の働きやすさとか、世に言うワークライフバランスがまるで考慮されないことも多いので、実現は難しい。
九州大学経済学部の遠藤雄二氏は、「ワークライフバランスと職場」と題する論文に、欧州と日本の比較を紹介している。フランスとスウェーデンと日本の帰宅時間を比較しているのだが、スウェーデンの場合、男女とも6時には普段帰宅しているそうである。フランスの場合、7時までには6割以上が帰宅している。これに対して、日本は、男性の場合、帰宅は8時以降が6割で、女性は働かずにずっと家にいるという人も結構いる(44%)。
統計では8時以降としか出ていないが、私のクライアントを見ていると、平日は夜の10時以降の帰宅が平均的という企業がむしろ多く、8時過ぎの帰宅なら早いほうだと思う。この調査は内閣府による調査結果だが、統計の枠組み自体が実態を反映できないという気がする。
また遠藤氏は論文で、「家庭にやさしい企業」として表彰された会社で、労基署から残業時間の取り扱いで指導を受けていたり、男性の育児休暇がはっきりしないという新聞記事があったことを紹介している。こういう表彰は、表彰する官公庁と表彰をもらいたい企業の握りのようなものに過ぎないかもしれない。しかし、それにしても、ひどい乖離だと思う。家庭にやさしいことを学卒採用の目玉にしていたのか。もしそうなら、けしからん話だということになる。
欧州では、ほどほどに働き、ほどほどに余暇を楽しむという姿勢のことを、descent work (ディーセント・ワーク)という。なかなか面白い概念だと思うが、米国型人事管理に飛びつく日本企業も、欧州の労務慣行にはまるで関心がない。あるいは欧米は同じように競争重視の社会だと思い込んでいる人も少なくない。そんなことはない。
共産党の不和哲三氏の書いた本を興味深いという指摘を以前のコラムでしたことがある。抵抗を感じる人も多いと思う。人事コンサルタントのくせに、共産党に与するのか、と。不破氏が指摘し主張しているのは単に欧州の働き方を参考にし、ILOの条項を尊重すべきだというだけに過ぎない。一方、内閣府の統計は上述のようにしばしば恣意的で、実態に合わない描写を行なっている印象を受ける。最近も賃金分布が小さいという指摘(平成19年1月23日の日経新聞)をしているが、統計の取り方などに無理があると新聞も指摘している。
前述の遠藤氏も、日本がILOの常任理事国であるにもかかわらず、第1条条項(48時間労働)に批准していないことを問題にしている。第1条条項に批准していない国は先進国ではほとんどないようだ。国際化やグローバルスタンダード、世界標準を主張するのに、どうしてこうしたベーシックなことが顧慮されないのか、と遠藤氏は疑問を呈している。
確かに、米国系人事コンサルタント会社は、世界標準を強調するが、コンピテンシーもMBOも世界標準ではない。また欧米の中で米国の経済と社会のシステムは奇異な存在である。欧州の人達は米国社会を疲弊し、荒廃した社会であるとしばしば批判している。
米国では富裕層が過去10年間に2倍以上富裕化し、一方で食糧にも事欠く層が急増している。経済的にも財政赤字と貿易赤字を抱え、薄氷の上を踏んで歩んでいる状態だ。日本が持っている米国債は膨大な額である。日本人は米国社会の惨状をあまりに知らないと思う。
日本では20年以上前から少子化が問題になっていた。私が人事コンサルタントになった90年頃、どういう人事制度を作るかという課題を研修で取り組んだことがある。私を含めて5人くらいの新人コンサルタントが討議をし、新時代の人事制度を考案した。結果的には、@子供が最低二人くらい産んでも大丈夫な環境づくり、A子供を三人以上作った人に恵まれた制度、B女性が働きやすく、社会復帰しやすい環境づくり、などを整理して発表した。
しかし、当時としては先進的と思えるこうした人事制度を導入してくれという会社は1社もなかった。業績が上がれば、その他のものは一切が犠牲になってもいいという考え方が支配的だった。また女性を積極的に登用するという発想はまるでなかった。現在でも実のところ言えばほとんどない。男女雇用機会均等法など大変迷惑だという声がむしろ一般的である。
ある経営者は言う。女性は交際相手や配偶者の都合で、モチベーションが急に落ちたり、離職したり、精勤できなくなる、だから積極的に採用、登用する気になれない、と。しかし、同じ経営者が、何らかの採用基準を作って採用しようとすると、ほとんど女性が上位に来る、どうしたらよいのか、と。新卒時点で女性のほうが圧倒的に優秀だという声は非常に多い。
会社は、自社の社員に会社中心の生活を強要する。その結果、配偶者や交際相手はそれに合わせざるを得ない、という事情もある。女性側に合わせる例もあるが、男性側に合わせることがほとんどだと思う。女性が総合職になると、転居を伴う転勤を何年か強いることが不文律という会社も多い。遠距離で交際することは難しく、悲しい離別を覚悟してその道を選ぶ人もいる。
例年やっているヒューマン・アセスメントでも、その上位の大半は女性である。平均以下の女性はほとんど実在せず、下位の方には正社員で留め置くべきか、悩ましい男性がずらりと並んでくる。その会社のアルバイトスタッフの主力を担っているのもほぼ例外なく女性である。頭数的な人材層に女性は一人もいない。それだけ、女性が優秀というよりも、女性には一段も二段も高いハードルが設定されているのである。多くのクライアントにおいて女性正社員は、気力、体力、知力、コミュニケーション能力などあらゆる点で充実し、優れている人が多い。逆に言えば、甘えがあり、能力的にも活躍度的にも中途半端な女性は正社員で残れないという見方もできよう。
朝日新聞の社説によると、女性が出産すると、7割が辞めてしまうことが指摘されている。損保、生保などの金融機関で復職制度はあるが、一旦退職して復職する場合、パートでの処遇で、もともとやっていた仕事を安い時給でやるとか、そんな条件である。そんな条件になるなら、子供は産んでも一人にして、正社員として休職後に復職し、そのまま働きたいという要望が出てきてもおかしくない。あるいは出産自体を見送ることもあるだろう。
ドイツでは男女共に育児に参画するということが実現しているというが、日本の現状はほど遠い。その前に、ILO第1条に批准していないので、超過労働の上限を定める、あるいは超過時間の記録を使用者に義務付ける、ということがない。
島田晴雄の指摘が遠藤氏の論文で紹介されている。それによると、生産性でトップの日本が労働時間もトップだそうだ。しかし、日本の企業人は統計の数字よりもはるかに長く働いている。そそもそ生産性自体はそんなに高くなく、一人当たりの生産高が高いのである。
日本は、管理職は自主的に土日のうち、いずれか1日は恒常的に出ていることも多いし、毎日の退社時間も遅いという。しかし朝は比較的早い。どこまでが労働時間かの判断は難しいかもしれないが、長時間、会社に滞在していることは事実である。
私の最初に勤務した会社でも、交代勤務の際の「休日」に出勤し、業務改善をしたり、普段の勤務時間でやれない研究活動を行なうのが通例だった。研修期間で3直4交替、休日に該当する日は自主出勤という名の強制出勤を体験したが、ふらふらになった。トイレで起ったまま寝たことがある。休日返上の出勤はあくまでも社員の自派的な行動と強調されていたが、環境とは怖いものである。
社会人2年目、会社にいない時間が平日と土曜日の場合、8時間で、残りはほとんど事務所にいた時期がある。ざっと16時間、毎日会社にいた計算になる。睡眠時間は平均して5時間程度だった。日によって飲み会もあったが、断ったり、後から遅れて参加することもあった。資料作成に追われ、昼食も食べない日がよくあった。あるいは当時増え始めつつあったコンビニでパンなどを買い、仕事の合間に食べていた。日曜だけは休めたが、芯からぐったりして、何をする気力もなく、出かけることもなく、ただひたすら寝ていた。
サラリーマンをしている人はそういうモーレツな状況をそれなりにイメージできるのではないだろうか。90年代は時短が叫ばれ、こうした状況は結構改善された。週に1回、リフレッシュでノー残業デーができたりした。しかし、90年代後半、リストラで一人ひとりの業務負担が再び重くなった。人事部を見ても減員しているところがほとんどである。
労働時間に関する日本の実情は「世界標準」から大きく乖離している。
最初に勤務した会社で1年先輩だった人が、独り言のようにつぶやいたことがある。自給にすると、給与はファーストフードの店員と変わらない。でも、(長時間労働で)疲れているから、ゼロ円でスマイルするのはさすがに無理と自嘲気味にこぼしていた。
ワークライフバランスはほど遠いが、急いで実現しないといけない。それこそ国際標準だという認識を持つように舵取りを変えないといけない。そうでなければ、この国は少子化の末に滅んでしまうかもしれない。大企業は、一人当たりの給与水準を追うよりも、ワークライフバランスを本当に実現して、適正な処遇を打ち出すべきである。それによっていい人材も集まると思う。とびきり優秀で、どこまでも働くという人材は1割もいれば十分だろう。それと成果や業績のみを短兵急に追いかける姿勢は自重しないといけない。それは自滅を導くだけである。


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